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長野県木曾郡木祖村
 
 
峠にのぼる道筋  


▲晩秋の木曾川を旧街道鳥居峠に登りゆく街道近くから眺める(11月はじめ)

  前回の記事では、旧街道沿いに跨線歩道橋を渡り、飛騨街道追分の辺りまで歩いてみました。今回は、旧街道を藪原神社下まで戻り、そこから逆にJR高架の下をくぐって上り坂を歩き、飛騨街道追分を経て、深い森の手前の鳥居峠の登り口までたどってみることにします。


▲錦繡に包まれた夏山モミジ公園(11月はじめ)

▲飛騨街道追分から尾張藩鷹匠役所跡を見上げる(6月初旬)

  ところで奈良井を出たJR線路は、鳥居トンネルを南西方向にほぼ直進して峠を越え、トンネルを抜け出ると大きく南に進路を変えて藪原駅に向かいます。鉄道は、急勾配の山腹から谷底にある藪原駅までの急勾配をコンクリート製の高架を伝って緩やかに下っていきます。
  一方、旧中山道の鳥居峠に向かう道は、入り組んだ尾根と谷の合間を縫って、曲がりくねりながらJR線路の南側をたどることになります。藪原の街から鳥居峠に向かう新道は、JRの高架をくぐって間もなく飛騨街道追分跡で旧中山道に合流することになります。鉄道をくぐるといきなり急勾配の狭い登り道が始まります。
  急斜面を登るのは大変ですが、山麓から山腹の風景は――木曾川を遠望したり、山林を眺めたりすると――四季折々に大変に美しく、ゆっくり周囲を見回しながら歩くのも楽しいものです。観光客にとってはかなり人気のあるウォーキング・コースで、春から秋にかけて、晴れているなら平日でも峠越え歩きをする人たちと出会うことができます。

■急坂の旧街道を登る■


▲鳥居トンネルの藪原側の出入り口

▲線路は尾根を回り込んで藪原駅に下っていく

  藪原の街並みの湯川酒造店の近くで東に曲がると、鉄道高架の下を往く小径につながります。小径は、藪原神社の境内がある高台を支える崖にぶつかり、――明治以降に急斜面の尾根裾を切通して建設した――南北に走る小径にぶつかります。南に進めば、藪原神社と極楽寺の門前に出ます。私はふたたび北に向かいます。


▲鉄道高架のの小径。坂の上には藪原神社の大鳥居や極楽寺の山門が並ぶ。

  藪原の街から鳥居峠の登り口までクルマでいくなら、この道を通ることになりますが、急な坂道でクルマどうしのすれ違いは困難です。歩きで行くことをおススメします。

  藪原街の周囲はほとんどが山林です。そして木曾地域は年間を通じて降水量が多いところです。
  そういうわけで、水資源に恵まれたところで、山腹、山裾のいたるところから清冽な水が湧き出し流れ出ています。水は集まって浸食作用を起こして谷をつくります。どんな小さな谷間にも湧き水があって、沢を生み出しています。
  鳥居峠に向かってのぼっていく坂道沿いにも小さな谷がありますが、やはり谷底には沢が流れ下っています。これらは往時、宿場街に引き込まれて宿場用水として利用されていたようです。用水は宿場内の水路を一巡したのちに、水田や木曾川に放流されていたようです。


▲山腹から流れ出る清水

◆飛騨街道追分◆

  新道の坂道を歩き出して間もなく飛騨街道追分の跡に出会います。往時、中仙道はここで、奈川や野麦峠まで連絡する飛騨街道と分岐しました。野麦峠は奈川の南西にある山岳で、飛騨高山と松本を結ぶ街道(野麦街道)の難所でした。飛騨街道は現在、県道26号とほぼ重なる経路だったようです。
  飛騨街道とは、飛騨高山から野麦峠を経て奈川の南で経路を南東に転じて藪原まで続く街道のことです。奈川から北東に向かい松本、塩尻まで連絡する道が野麦街道です。

◆鷹匠屋敷跡◆

  さて、追分のすぐ先には街道の西脇、南西に突き出した尾根の端に尾張藩鷹匠役所跡があります。説明板によると、鷹匠屋敷ははじめは妻籠にありましたが、野性味あふれた鷹を捕獲飼育するために藪原に移転したそうです。
  鷹狩り用の鷹は、鷹巣を見つけて幼鳥(雛)を捕獲して狩り用に飼育するのですが、鷹匠とは藩主に直属して鷹の捕獲と飼育訓練、藩主の鷹狩りの采配、御狩場の管理を統括する有力な組織(役所)でした。役所を束ねるのは鷹匠頭で、いわば特別の軍政上の名誉職でした。
  鷹匠役所で捕獲された鷹幼鳥は、しばらく馴致された後に尾張城下近くの林野や鷹匠屋敷に移されて鷹匠とのコミュニケイションや狩猟の訓練を施され、やがて藩主の鷹狩りに出場することになります。狩場と呼ばれる林野でおこなわれる鷹狩りでは、多数の藩士たちを動員してウサギやキジ、ウズラなどを追い込み鷹で狩猟するのですが、藩主親臨ないし指揮下での野戦訓練や哨戒・行軍調練として格別の意味を与えられていました。
  それゆえ藩主の傍らで鷹狩りを統率する鷹匠は、藩主直属の武門の高官としての位置づけ(名誉)を与えられていて、これは戦国時代から有能・有力な武将が鷹匠を兼ねて領主の帷幕に近習するという慣例を踏襲したものです。


▲鷹匠役所跡からの藪原の展望

◆急坂の街道をのぼる◆

  峠の入り口までの街道では鷹匠役所の前が一番の急坂です。ここから消防署北分署までは旧街道は勾配が均され拡幅されていますが、江戸時代には起伏が激しい杣道だったと思われます。
  旧街道が急傾斜の尾根や谷を登る道であるを示すため、右に、JRの線路や木曾川が崖下に隠れているように見える2枚写真を掲げました。
  ヒノキの森で始まる峠への登り口まで、あとわずかです。
  ところで、旧街道は消防署の傍らで奥木曾湖(ダム湖)に向かう幅広の道路と交差します。その道路に沿って街道を外れて600メートルほど北に進むと、大きな貯木場があります。ヒノキやサワラ、ミズナラなど山林から伐採してきた太い木材が山と積まれています。


▲藪原の貯木場


崖と効果に挟まれた道。左崖上に藪原神社がある。


鉄道高架の下をくぐる新道。向こう側が藪原の街区。


飛騨街道追分跡から続く鷹匠屋敷跡の前の急坂


急坂の途中、この左手の先に鷹匠役所跡がある


尾張藩鷹匠役所跡の標柱。背景は三沢山。
鷹匠屋敷は藪原宿全体を見おろせる高台
にあって、藩軍政上の管制高地でもあった。
木曾は幕府の直轄領からやがて尾張藩領に編合され、そののちに尾張藩による木曾一帯の統治体制が整備されていった。鷹匠役所がのちに妻籠から山深い藪原に移転した背景には、そういう事情もあった。また、鷹匠役所は軍政上特別の地位を与えられ、主要街道の軍事的要衝を監視するだけでなく、鷹の雛捕獲のための藩領外の山岳林野の視察という名目で対外諜報活動も担っていた。

急坂の道には滑り止めの凹型が押されている

坂道沿いには民家が並ぶ


休憩を兼ねて写真撮影をしながら進む


小径の彼方に鳥居峠が見える

「原町の大清水」と呼ばれる水場。江戸時代からある清水で、峠越えの旅人に利用されていたという。


山荘あるいは別荘風の家屋が多くなってきた


天降社の大カエデ(オオモミジ)と説明板。この石段の奥には天降大神社、津島社、蚕玉神社の祠と石碑がある。


峠の登り口が近づいてきた

JR線路は右手の急斜面の下を往く


藪原の街の脇を流れる木曾川


このヒノキの森が鳥居峠への入り口


▲晩秋の峠道から木祖村を見おろす。冬はそこまで来ている。

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