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長野県木曽郡木祖村
 
 
伝承では飛鳥時代創建  


▲石段の上の重厚な拝殿 本殿蓋殿から突き出た入母屋破風の部分が向拝になっている


▲朱塗りの大鳥居。右脇に見えるのは極楽寺の本殿。

  藪原神社は飛鳥時代後期(680年頃)の創建と伝えられています。大和王権の勅使として三野王(美濃王)が信濃を巡行したさいに、木曾藪原を訪れ、熊野本宮大社を勧請したのが起源となったのだとか。
  飛鳥時代の大和王権が各地に権威を広めようとしたさいに、本州中央部の信濃は重要な位置づけを与えられ、美濃路から信濃の地理や勢力配置を探索するうえで木曾藪原が重要な拠点となったということでしょうか。
  境内の説明板によると、主祭神は伊弉諾いざなぎ尊、伊弉冉いざなみ尊、速玉男はやたまのお命、事解男ことさかのお命で、相殿は須佐之男すさののお命、菅原道真となっています。

■山腹高台の神社■

◆古い由緒◆


▲参道石段の途中で振り返ると、朱鳥居の向こうに藪原の街を見おろす

  神社創建の当初は、熊野社と称して縣坂あがたさか――現在の鳥居峠――の山頂(峠山山頂)にあったようですが、鎌倉時代初期の建久年間(1192年)に縣坂十王へ遷座され、さらに戦国時代の永正年間(1511年)に現在地に再遷座したそうです。縣坂十王というのは、峠山の南西側の中腹(天降社の上方辺りか)だと思われますので、神社は時代追って山頂部からしだいに藪原宿に近づいてきたということのようです。
  明治維新時に神仏分離や廃仏毀釈運動の影響を受けていますが、イザナギ、イザナミ、スサノオという大和王権側の神々と仏教思想の影響で権現となった熊野社とが合祀されてきたわけで、その意味では神仏習合の伝統を相当程度に保っている神社と見ることができるでしょう。
  これはこの神社に限ったことではなく、山や森、海や河川などのあらゆる自然のなかに神(八百万の神)を見出す日本人の始原的で素朴な汎神論信仰の前に、国家神道の権威を貫こうとした明治政権の意図は半ば挫かれ中途半端に終わったようです。境内には、上記の4神のほかに天神様、稲荷社、出雲社、八坂社、山祇社、誓社など数えきれないほどの神々が祀られています。
  木曾を含む中山道沿いの諸地方では、討幕運動が盛んだったところに戊辰戦争での「官軍東征」の影響からか、民衆による廃仏毀釈運動が過激化したのですが、そういう木曾路の藪原でさえも神仏習合と汎神論信仰の伝統はしぶとく生き残ったのです。


▲拝殿下にある端正な造りの社務所

◆木曾山林中の神社◆

  長く神仏習合の伝統のなかにあったとはいえ、現在に残されている神社と寺院とを比べると、神社の方が「文明」以前の始原的というか原基的な自然との結びつき(自然信仰・自然崇拝の趣き)が強いと感じられます――それは、明治初期に密教修験場についてより徹底的な神仏分離・廃仏毀釈がおこなわれたせいかもしれません――。藪原神社について、その思いを深くしました。


▲拝殿の内部 この奥の本殿がある

  さて、道路に面する赤い大鳥居(西向き)をくぐると緩やかに曲がった石段参道をのぼることになります。進ごとに参道を取り巻く山林は深くなり、神域に入ったという感覚が強まります。
  参道は緩やかに北に曲がって手水舎の前を通り、奥の大鳥居(石造りで南向き)に導きます。大鳥居の奥に社務所と拝殿・本殿があります。
  山腹にある境内は棚田のように立体的で、拝殿・本殿はひとつ上の壇上に配置され、山腹斜面伝いの石段参道をそのままのぼるか、端正な造りの社務所の正面の急な石段をのぼって参拝することになります。
  拝殿と本殿は一続きの建物ですが、大きな神明宮造りの本殿蓋殿の棟側に入母屋破風を向拝のように接合した形状で、いわば神明社風と明神社風の折衷様式となっています。
  蓋殿の向かって右側(南側)には、長い脇拝殿がつながっていて、山祇社や八坂社、出雲社、誓社などの小さな祠が並列安置されています。

  脇拝殿の先には天神社が置かれていて、脇拝殿と天神社のあいだには、朱い鳥居の列が山腹(東向き)に向かって並んでいて、その奥の石段上に稲荷社の祠が置かれています。
  というしだいで、山腹にへばりつくような境内は、社務所がある壇の上に拝殿・本殿の壇が築かれ、さらにその上の壇に稲荷社が配置されるという構造になっています。


▲朱鳥居の列の奥には稲荷社の祠

  藪原神社と極楽寺は、峠山から南に延びる尾根の西斜面の裾近くに並んでいます。境内はほとんど一体化しています。江戸時代には神仏習合でしたから、通路と境内は融合していたはずです。
  これらの境内の裏手(西側)には南北に通る山道があって、裏山の遊歩道となっています。また神社の裏手から国道19号に連絡する舗装した小径があります。


▲神社の裏を抜ける細い山道

藪原神社と極楽寺が位置する尾根の地形や地理情報について知りたい人は、⇒以下の文字列にマウスオンしてください
⇒藪原神社をめぐる地形に関する説明   藪原神社と極楽寺は、藪原宿と奈良井宿とを隔てる鳥居峠・峠山の長い尾根の西側の裾近くの段丘に位置しています。この峠は、中央アルプス木曾駒ケ岳から北に向かって30キロメートル以上も続く長い尾根の北端をなしています。この峠は東側から藪原宿に迫っています。
  藪原の街は、木曾川が峠山の尾根を侵食してつくり出した南北に細長い河岸段丘の上に位置しています。神社と寺院の境内はその河岸段丘の上にある山腹高台にあるのです。境内の裏は急斜面ですが、そこを登ると傾斜が緩やかな丘陵が南北に延びていて、集落や畑が点在します。
  鳥居トンネルを出た国道19号は、尾根の西側山腹の山裾を木曽川に沿って南に向かいますが、この国道は藪原神社から東に150メートルほど東側の丘陵上を走っています。
         


朱鳥居をくぐって山林深くに入っていく


背後の山が神体だという感が強まる


手水舎 背後に鬱蒼たる山林が迫る

拝殿への入り口に立つ石造の大鳥居


右側の石段をのぼって拝殿へ


ヒノキやサワラに取り巻かれた石段


高台壇上の拝殿と神饌所


美しい造り:拝殿前から社務所を見おろす


拝殿正面の様子


本殿が収納された蓋殿は神明社造り


本殿に連なる脇拝殿


脇拝殿に並ぶ神々の祠


脇拝殿の南には天満宮


天満宮横の石段の先には稲荷社


神社境内から国道19号方面に向かう小径


藪原神社と極楽寺の境内の裏の山腹を通る小径

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