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長野県長野市
篠ノ井東福寺
 
  専精寺の山号は海野山です。海野とは、戦国時代に台頭した真田家が属する一族の宗家である豪族の姓ですから、開山開基に海野家が関与していた歴史を物語っています。
  専精寺は塩崎の白鳥山康楽寺に属してますが、康楽寺は平安末期〜鎌倉初期に海野一族出身の西仏坊が開いた寺院だと伝えられています。
  巻頭写真は、専精寺の境内入り口門柱の前から参道と本堂を眺めたもの。
 
土口から東福寺へ  


山号扁額は、松代藩主、真田行貫の揮毫によるという▲

  専精寺は白鳥山康楽寺の系統に属しています。康楽寺は伝によると、平安時代の末期に信濃の国更級郡塩崎村に創建された浄土真宗の寺院で、信濃の豪族、海野氏の家門から出た西仏坊覚明が開いたと伝えられています。

  ただし、最近の歴史研究では、木曾義仲の軍略と学芸の師であった覚明と海野家出身の西仏とは別の人物であったことが解明されているようです。康楽寺またはその前身となった寺院は、親鸞も学んでいた比叡山天台宗を宗旨として創建されたのかもしれません。
  比叡山では多様で独創的な仏教思想の自由な研究が許されていたので、浄土宗や浄土真宗、さらには禅宗の土台となった浄土教とか阿弥陀経を研鑽する学僧を多数輩出しました。平安後期以降に出現・確立されていく臨済宗や曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の創始者は、皆比叡山で研鑽した高僧でした。


▲本堂前から境内庭園と参道を眺める

  さて、室町時代の後葉から戦国時代にかけて、浄土真宗は大坂の石山に本願寺を建立して、戦国大名に伍する大きな勢力を築きました。それゆえ、天下布武をめざす織田信長と敵対することになりました。その時代、1569年、康楽寺の第11世住持、浄林の次男、尊祐は埴科郡土口村に海野山専性寺を創建して布教に努めたそうです。
  織田家と対抗する石山本願寺を支援するため、信濃各地の浄土真宗の寺院はこぞって兵糧米を送り届けました。専性寺も支援の呼びかけに応じました。
  しかし、畿内の戦国大名を束ねるようになった織田家の威圧の前に顕如商人は石山を退去することになりました。このとき、浄土真宗本願寺は、織田家との和睦を受け入れようとする顕如派と徹底抗戦を求める長男、教如派とが物別れとなり、これを主原因として本願寺が東西2つに分離することになりました。
  それでも、浄土真宗が日本各地に拡散して門徒を増やしていきました。北信濃では、浄土真宗の勢力が伸長し、北国街道松代道、大笹街道沿いに善光寺平から上州にかけて、衰微した古い寺院を再興して浄土宗の寺院として開基素直す運動が展開されました。


▲門柱から入ると、参道脇に太子堂とケヤキの古木


▲改築された本堂は2001年に落慶法要が催された


▲聖徳太子を祀った太子堂も補修された


▲鐘楼脇の石柱には歴代住職の文化教育での事績が記録されている

▲江戸時代の安永期(1780年)に建立された鐘楼


▲本堂と専精寺会館を背景に親鸞聖人像


▲本堂の南西脇に鐘楼が位置している<


▲本堂の大屋根は地区のランドマークとなっている

■東福寺への移転と隆盛■

  親鸞が越後に流されたときに北信濃は遠流の旅の経路となったことから、北国街道沿いあるいは千曲川流域に門徒集団が根付き始めていました。ことに戦国末期には、千曲川水系の治水事業とともに新田開拓や村落建設が進み、曹洞宗や浄土宗と並んで台頭した浄土真宗もまた、学問や技術知識の担い手であった修行僧たちが農村開拓を支援しました。新開地に新たに寺院を創建したり、移転したりする運動が巻き起こりました。
  農民たちの開墾や村づくりを支援し寄与した仏僧たちと寺院は、農民たちから大きな信頼を受けることになりました。徳川家の覇権が確立して平和の時代が来ると、この傾向はいっそう加速したようです。そして、幕藩体制の成立とともに本願寺の東西分裂もまた動かしがたく固まっていきました。とはいえ、専精寺はこういう分裂にはあまり影響されなかったようです。系統が分かれてしまった康楽寺とも緊密な結びつきを保ってきました。
  農村の末端の門徒(信者)にとっては、権力構造の上の方での分裂や対立はいわばどうでもいいことで、そういう門徒の信仰の拠点である限り、本願寺の東西分裂はさしたる問題ではないということでしょうか。


樹齢500年以上と見られる大ケヤキ

  1615年(元和元年)、川中島南部の更級郡小森村でも集落づくりが進み、門徒が盛んになったため、彼らの要請に応じて専性寺がこの村に移転しました。1634年(寛永年間)には、東本願寺の末寺となり、宣如上人から阿弥陀如来や親鸞、教如上人の御影を下賜され、寺号を専精寺に改めました。
  その後1644年、この一帯で戸部堰下流にも農村開拓が広がると、新開地の門徒団の要望によって、寺は東福寺村の現在地に移ることになりました。その後この地に定着しながら、松代藩内での地歩を固め、寺格を高めてきました。

■教育や文化の拠点として■

  1653年(承応2年)には松代藩主から寺領除地(年貢などの賦課を免除される土地)を与えられるとともに、東本願寺派において木像の阿弥陀如来を祀ることが許可され、親鸞上人像を拝受したそうです。
  1712年(正徳2年)には、聖徳太子像と7人の高祖――親鸞が選んだ阿弥陀信仰(浄土信仰)研鑽の先達で、インドの龍樹と天親、中国の曇鸞と道綽と善導、日本の源信と源空――の御影を祀ることになりました。
  江戸後期から幕末にかけては専精寺が東福寺村の文化・教育の拠点となったことが伝えられています。
  文化・文政〜天保期(1804〜45年頃)には、学者文人肌の空山(映澂)和尚が寺子屋を開いて、子どもたちに諸堂や漢詩、弓術などを教えたそうです。
  幕末の安政〜慶応期には、徳雲和尚が寺子屋で子どもたちに挿花、茶道、書道を教えたそうです。

  堂宇の来歴については、1735年(享保2年)に新たな本堂が建立され、遷仏会が催されたそうです。1780年(安永9年)には鐘楼が建立され、1816年(文化13年)に、江戸銀座の大工たちの講から寄進された聖徳太子木像を祀るために宝形造りの太子堂が建立されたということです。
  庫裏は東福寺村に移設されて以来の古いものでしたが、老朽化が目立ったてきたことから1980年から83年にかけて改築され、専精寺会館と名づけられて落慶法要が催されました。
  本堂は、1993年から建設委員会が組織され再建立工事が始まり、2001年に竣工、落慶法要が営まれて現在にいたっています。


庫裏居住棟と提案の様子

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