室町時代〜江戸時代初期の千曲川水系

  下の絵図は、千曲川・犀川水系の歴史的変遷を追跡するために、私が作成した、室町時代ないし戦国時代から江戸初期(15世紀〜17世紀前葉)までの千曲川=犀川水系の古地理の推定図(想像図)です。
  当時は、ダムや発電所などの設備はなかったので、千曲川=犀川水系には今よりもはるかに大量の水量が流れていたはずです。ことに犀川は現在、松本から長野市小田切まで5つの巨大なダム湖と発電所があって、とんでもなく膨大な水量が貯留されています。それらがない場合の犀川の流水量や流速、浸食・運搬・堆積作用は計り知れないほどに巨大だったでしょう。上流にダムや発電所がなかった頃には、現在に比べて、年間を通じて2〜3倍近い流水量だったと推測されます。
  また、小田切の渓谷から善光寺平に出た犀川の水面と千曲川が流れる位置との標高差は最大で30メートル以上もありました。この高低差によって、犀川から千曲川に向かって流れ下る流水量もまた莫大な量だったと推定できます。川中島平は、犀川から千曲川に向かって流れ出る無数の小河川によって、その大半の地帯が湿原や浅い沼沢地をなしていたでしょう。川中島は、まさに2つの大河に挟まれた中間地帯に、そのような湿地帯・沼沢地の上に浮かんでいる中洲の集合だったのです。
  大雑把に言って、この絵地図では、福島から村山、長沼、赤沼にいたる区域では、千曲川の本流は現在よりも数百メートル以上も東寄りに流れていたと想定して古地理を描いています。

  その頃の善光寺平では、犀川は、現在のように堤防に囲まれた河床に集められた水流が本流を形成して流れている、という状況にはなかったのです。増水のたびに流路は変わりました。膨大な水量が引くところ低いところへと力任せに「好き勝手に」流れ、いくつもの分流となっていました。400年以上も昔、犀川の本流ないし大きな分流は、長池の南部や川合新田を通って屋島の辺りで千曲川に合流していたようです。
  大豆島まめじまは、土砂が堆積した中洲をなしていましたが、犀川の水流によって長池から切り離された中洲=島となっていて、洲の角が丸い半月形をなしていたので、その形から「大豆島」と名づけられたと伝えられています。

  善光寺の北東方向の古地理を推定してみましょう。
  盆地の北部の長沼では、その西手前で浅川の主流は南東に向かい、柳原方面に流れ下って布野辺りで千曲川に合流していたものと見られます。そして、浅川の分流が北東に流れて赤沼の北側で千曲川に注ぎ出していたようです。そこでは標高差がほんのわずかで、分流の東側に大きな沼地・湿地帯があったものと考えられます。「長沼」「赤沼」という地名は、そういう地形に由来するのでしょう。
  とすると、浅川の主流と分流とが囲む形で、長沼一帯はそれら河川による堆積でできた中洲丘陵となっていたことが推測されます。
  そして善光寺の南側から南東方向に目を転ずると、裾花川の分流または地附山辺りから流れ出した小さな川が何本かが柳原から村山の南側で千曲川に合流していたと見られます。17世紀はじめまでは、裾花川は何本もの分流をともないながら、現在の県庁下から新田町や小牧を経て、あるいは七瀬や栗田を抜け、尾張部から柳原を通って千曲川に注ぎ出し、あるいはまた南流して風間、大豆島、長池を抜けて犀川に合流していたようです。
  もちろん犀川も蛇行したり、いく筋にも分流したりしていました。
  「七瀬」という地名は、蛇行によって多数の瀬があったという裾花川の様子を表し、また、「長池」は、氾濫時の規模の広がりや増水後の長期間にわたる沼池の残存を意味していたのだといいます。

  ということは、現在千曲川が流れている西岸河床では、これらの川の堆積作用で土砂が堆積して河岸丘陵をつくり、また自然堤防(河岸段丘)を形成していたので、また西方から流れ下る流水の圧力を受けていたので、千曲川の本流は現在地よりも700メートルから最大で1.5キロメートルも東側を流れていたものと推測できます。
  してみれば、なぜ古代から長沼に水田と集落が開かれたのかについて、地理的・地形的な大きな理由が見い出すことができるということになります。長沼は、千曲川の自然流路状態では、現在に比べて、かなり安全な河岸丘陵だったのです。

  さて、この古地理絵図でとくに注意してほしい点は、妻女山の北側から葛城城跡、川田にかけての一帯の千曲川の流れと水系が、現在と大きく異なっていることです。松代藩は千曲川主流の流れをつくり変えたのです。

  以前は千曲川は、横田から小森――現在の篠ノ井東中学校の南東――まで流れ来て、そこで急に蛇行して鋭角的に曲がって(ほぼX字ターン)妻女山の麓まで大曲りしていました。そのため、小森村・東福寺村一帯は増水するといつも氾濫洪水の被害を受けていました。
  そこで、松代藩はこの流路を現在の流路、つまり中沢村から西寺尾村杵淵の――現在「大曲」と呼ばれる地点――に向かう流れに組み換えたのです。
  ところが、それでもなお千曲川の分流は、妻女山の麓から清野村の山麓を回って現在の松代城跡近くまで達し、さらに寺尾の尾根と金井山の麓を洗って、大室の下の牧島辺りで千曲川に合流していたようです。この分流の流路の跡は、現在も山麓の池として点々といくつも残っています。
  妻女山麓の松代町清野には、今でも分流の跡が沼や池として残っていて、60年ほど前までは湿原地帯でした。松代城跡の周囲も1960年頃までは湿地帯で、沼や蓮田が広がっていました。また、大室から川田の山麓は今でも湿原の名残りがあって、湿田と蓮田(跡)もあります。
  こうして、妻女山の麓から松代城を経て金井山の北麓、芝と千曲川主流のあいだは湿原・沼地で、さらに清野から現在の古戦場公園、さらに神明、小島田にいたる川沿いの一帯も湿原、沼地だったと見られます。湿地の一部は1960年代まで残っていました。このような湿地が千曲川と犀川沿いのいたるところにあったようです。【⇒現在の千曲川水系】