■「国づくり神話」を古代東アジア世界のなかに位置づけると■

  『日本書紀』や『古事記』など古代日本の国づくり神話は、あたかも日本列島がそれだけで自己完結したかのような世界観=地理観で描かれています。
  「紀元2600年」というような極端なフィクションは度外視するとして、アマテラスの子孫による大和王権の権力と権威の拡張の歴史過程をなにほどかは反映し、顚倒したイメイジではあれ、素材として取り込んだ物語だと私は見ています。
  すると私の視点からは、古墳時代からの大和王権の出現・確立とその権威の拡張が神々の出会いと戦い、結びつき・交流などとして描かれる物語は、列島各地に数百から数十という数的規模であった《氏族や部族による小侯国群(豪族が統治する多数の政治体)》の対抗や相互関係の歴史が何ほどかは盛り込まれているということになります。
  すると、当時の東アジア世界(文明圏)では
  大陸中国では後漢帝国が解体し、三国時代から五胡十六国時代を経て随・唐の王朝帝国の形成へと動いていきます。
  一方、朝鮮半島では鮮卑⇒韓⇒高句麗・・・などの諸王国が勃興し、やがて百済、任那、新羅、伽耶などの侯国が興亡します。
  そういう大きな文脈のなかで、 日本列島では諸王国、諸侯国の形成と対抗をつうじて、やがて、最大でもせいぜい近畿地方+中国地方+東海地方という規模で大和王権の相対的優越ないし覇権の仕組みができ上っていったわけです。
  では、東アジア世界=文明圏の歴史構造のなかに位置づけて大和王権の形成確立と優位の獲得の過程を分析しながら、日本の(大和の神々による)国づくり神話を解釈した場合、どのような歴史ロマン物語を描き直すことができるのでしょうか。
  私がまず注目するのは、古代から玉鋼から刀剣や武具を製造する技術と鉄器文化を保有していた出雲の国の「国譲り」の物語です。
 『日本書紀』の物語では、アマテラスは自らの孫ニギニギシキに出雲の国を治めさせようとして、タケミカヅチとアメノトリフネを派遣してオオクニヌシに国(統治権)をニギニギシキに譲るよう説得させました。オオクニヌシとその長男コトシロヌシは納得したものの、武神タケミナカタは受け入れず、タケミカヅチと力比べの勝負となります。
  結局、タケミナカタは敗れて、出雲をあとにして、やがて諏訪に定着し、(信濃の国づくり神話によると)在地のモリヤ神を臣従させてそこを統治することになりました。
  タケミナカタは諏訪を拠点として信濃を治める神となりました。

■タケミナカタとタケミカヅチ■

  ここでは、大和王権は武力による征服ではなく、出雲の統治権を王権に譲与するように外交交渉をおこない、そのさい、交渉役にタケミカヅチたちを派遣し、外交協約の締結(決着)の行方をタケミナカタとタケミカヅチとの折衝(力比べ)に委ねたのです。
  先進的な文明と軍事力を保有する出雲侯国に対して、大和王権は武力衝突すれば単独ではかなわないという力関係があったのです。
  鉄製の武具と刀剣で武装した出雲の武門の長、タケミナカタをタケミカヅチは封じ込め掣肘できたとなると、彼もまた先進的な鉄製の武具・刀剣で武装した侯国の君侯または武門の長であって、先進的な出雲侯国に優越する武威を持つとなると、おそらく渡来人の武装騎馬兵団を率いていたのではないかと想像できます。
  すると、大和王権は、朝鮮半島の王族あるいはその子孫(渡来人)であろうタケミカヅチを交渉役にしたわけです。おそらく、古くから日本海通航をつうじて出雲と交流があった半島の侯国の王族ないしその子孫だったのではないでしょうか。
  しかも、オオクニヌシ(出雲の大豪族)の一族とは面識があって親しかったがゆえに外交交渉をまかされた・・・。
  ここには、これまた先進的な文明と武力を保有するタケミカヅチが率いる有力侯国と大和王権との同盟が描かれているのです。
  タケミナカタも出雲豪族の武門の指揮官として、タケミカヅチの武力、ことに武装騎馬兵団の威力を知っていたがゆえに、小手調べをするかしないかのうちに、敗北を認め、出雲を立ち去り、諏訪湖の近くに新たな勢力圏を確保します。
  つまりは、出雲の国の宗主権を握った大和王権は、この地を土着豪族を(タケミナカタの遠流という形で)武装解除したわけです。
  また、山地山岳での鉱山・鉱脈の探査と金属鉱石の精錬、金属加工、鍛冶冶金、石積み構築などを司る神であるカナヤマヒコもまた、そういう高度な製造業、金属加工業、城郭構築の技能と知識を保有する渡来人系(職人工人集団)の神、祖霊ではないかと見ることができます。
  製鉄や紡錘、織布などの繊細な技能を持つ部の民とか曲部などは、やはり渡来人そのものか、彼らと交流し学んだ和の民いずれかの専門職能集団ではないでしょうか。こういう人びとは、信州にはことに多かったようです。タケミナカタは、未開拓の僻地ながらもそういう文化がある信濃の事情を知っていて、諏訪に定着したのかもしれません。
  つまり、カナヤマヒコを信仰する人びととの結びつきがあったかもしれないということです。
  とはいえ、律令制の格式のなかに外形的に包摂された令制国=地方侯国としての信濃でタケミナカタが統治するという状況は、いまだ地方侯国が大和王権に形式的に臣従しながらも、相当に自立性を保っている関係構造を意味しているようです。
  また、タケミカヅチ(が君臨する侯国)は、大和王権が九州遠征などで苦境に立つと支援に駆け付け、あるいは作戦を授けて手助けし、王権の権力拡張を補完していきます。
  神々の物語は、このように、東アジア世界のなかの諸王権、諸侯国の相互関係(同盟関係)のなかで大和王権が日本の近畿地方で覇権を獲得していく過程として描かれているわけです。

■サルタヒコと大和王権■

  サルタヒコは、南宮遺跡の有力豪族の居館の屋敷地に神社が祀られた頃にそこに勧請分霊されたのではないでしょうか。というのは、神社に舞楽や雅楽を奉納した踊り手や楽人たちがサルタヒコを尊崇していただろうからです。
  彼らは荘園や公領、さらに後には所領などの政治的境界を越えて旅を続け、神社などの公の祭事の場で舞楽などの技芸を神に上演奉納し、したがって参集した民衆に舞楽を披露しました。舞楽人たちは「道みちのともがら」として、朝廷=王権によって庇護されていたようです。この庇護を具現化する神がサルタヒコだったと見られます。荘園公領、所領を統治する役人(豪族)や領主(武士)たちの権力、すなわち地理的範囲が限られた権限を超えた次元での保護を担保できるのは、王権だったからです。
  舞楽を奉納するために各地を移動する舞楽人たちを保護し、神社などでの民衆の面前で彼らの上演を実現させることで、その場限りではあれ、地方豪族や領主に対して王権の権威や存在を感じさせるうえで意味があったのです。

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