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長野県飯山市飯山
  地元の歴史家によると飯山城は、13世紀前葉に鎌倉幕府の御家人、泉小次郎親衡が北条家との敵対から飯山に遁世し、現在地に近くに居館を設けたのがそもそもの始まりなのだとか。
  鎌倉末期から室町期にかけてはこの地の豪族となった泉氏の拠点となり、戦国前期には高梨氏の城砦が築かれ、やがて上杉家と武田家の領地争いの最前線となりました。その後、幕藩体制下で飯山城は再構築され、幕末期の廃城を経て現代にいたっています。
  写真は、復元された飯山城南中門 【撮影は11月中旬】
城郭の歴史と地理

  現在の飯山城址公園がある高台は、戦国時代に上杉家が信濃攻略の拠点として高梨家の城砦だったものを改修して高い土塁を築き、再構築してから本格的な城砦(近世城郭)となったようです。この城址を地元の人びとは「城山」と呼んでいます。
  城の周囲の地形を観察すると、中世(鎌倉~室町期)に泉氏の居館ないし城館があったのは、愛宕通り西側の段丘上で、忠恩寺から愛宕神社にいたる丘陵あるいは上倉神社の高台ではないかと思われます。当時の治水技術や築城土木技術では、現在の城址公園の場所では千曲川の脅威に耐えられなかったでしょう。


▲本丸の天守台。天守台と呼ばれているが、比較的小規模な櫓を支える程度の広さと形状だ。

  そのことはさておいて、ここでは飯山城址を歩いて、戦国時代以降の飯山城の歴史と地理について思いを馳せてみます。今回は本丸と二の丸を中心にめぐってみます。


▲本丸東寄りにある葵神社の拝殿と本殿


▲江戸時代の飯山城の見取り図(城址公園内の説明板から引用して編集)

■飯山城址の地理と歴史■

【千曲川右岸の高台から見た飯山市街北部の地形】  飯山城址は鉄塔上部の左脇に見える樹林にある。市街の背後の低い丘陵は、手前側を千曲川が侵食して段丘崖になっている。画面中央の丘が長峰山。背景にそびえるのは斑尾山。

◆飯山と城の地理◆

  まず飯山城址公園の地理的環境について観察してみましょう。上掲のGoogleマップの表示を「地形」にすると、飯山城を中心とする地区の地形を立体的に概観することができます。
  別の記事で飯山の地形について説明しましたが、飯山盆地は千曲川が形成したものです。南北に細長い飯山市街の西側には段丘が迫っています。飯山城の西側には、長峰山が南北に長い尾根が続いています。
  長峰山の東側斜面は千曲川の浸食でつくられたもので、河岸段丘となっています。千曲川河床と段丘上部の高低差は、最大で50メートルほどもあります。
  江戸時代前期までは、この盆地を流れる千曲川は何筋かに分流して、飯山盆地はいたるところに湿原があったようです。その痕跡は、20年ほど前まで丘の際まで湿田が広がっていたことです。飯山城の堀は湿原を掘り下げてつくり、千曲川本流だけでなく、そういう分流から水を引き込んでいたはずです。湿原の水を掘りに落として集め、城の周囲に干拓や土盛りを施して武家屋敷街や商人街を建設したものと思われます。   


▲石垣東端から本丸への上り口

▲南中門側から本丸への上り口

▲大手門側から本丸を見上げる

◆飯山城の変遷◆

  城郭構造の推移を知るために、戦国期からの飯山城をめぐる状況の変遷について少し触れておきます。
  室町末期に北信で勢力を拡大した高梨氏は現中野市を拠点としましたが、やがて武田家に追われて飯山に居館を移しました。武田家の北信濃への伸長に対抗すために上杉家が飯山を征圧していきます。そのさい、高梨家は上杉家の家臣となりました。
  上杉家は北に伸長する武田家勢力に備えて、高梨家の居館の高台を全面的に改修・築城を施しました。
  城山高台の東側から南側にかけて堅固な土塁を構築してその足元を掘り下げて堀を築いたようです。ことさら水濠とするつもりはなかった――空堀でよしとした――のですが、結果的に周囲の湿原や千曲川から水が落ちて集まって、難攻不落の濠となったようです。

  上杉謙信の突然の病死とともに、飯山をめぐる情勢は攻守ところを変えて上杉家は越後に後退し、武田家が飯山城を拠点として統治することになりました。
  現在のように、北側から三ノ丸、二ノ丸、本丸と続く構造は、武田家が上杉勢への備え――北に正対して攻め守る構え――として構築した配置で、江戸時代の城郭もこれを土台として整備再構築されたようです。


▲二ノ丸東端からの千曲川の眺め
▲二ノ丸・本丸東端の土塁

▲本丸の南東端の土塁

◆本丸の様子◆

  本丸には葵神社が置かれています。その社殿は神明社式――大和王権系――で、幕末まであった城郭内の神社とは伊勢社を別として系統を異にしています。現在の社殿が明治初期の造りを踏襲しているとすれば、誤信戦争で飯山を徹底的に破壊した政治政府側の権威に屈服した事態の象徴ともいえます。
  神社の脇には「天守台」が残されていますが、規模が小さいので、飯山城破却のさいに石垣は壊され、石塁に組み換えられたのかもしれません。それとも、もとから――物見櫓程度で――天守はなかったのかもしれません。


中央橋近くの千曲川。城址はここから少し下流にある。

天守台からの葵神社の眺め。 社殿は神明社式なので、明治政府の意向を強く受けてものと思われる。境内となっている場所には本丸御殿(藩庁本部)があった。

天守台の石塁。天守台の大半は土塁。かなり壊れていて、石塁だけが堅固に残っている。

天守台から二ノ丸と本丸を結ぶ桝形を見る

攻撃を重視した造りの桝形(外桝形と呼ばれる)

天守台から桝形への連絡路

桝形から二ノ丸を覗く

二ノ丸から桝形への上り口

本丸石垣の東端部

本丸石垣と桝形(二ノ丸からの眺め)

本丸石垣の北側(二ノ丸からの眺め)

二ノ丸の桜園を本丸から見おろす

二ノ丸の眺め

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