飯山城址――飯山城の歴史――を探索する

  伝承では、飯山城の始原は、中世の豪族、泉氏が構えた館だったと伝えられています。泉氏の本拠は、飯山城址から北北東に5キロメートルほど離れている常盤牧――千曲川の下流域――だったそうです。
  この泉氏の祖は鎌倉の御家人、泉親衡だ、という説もあります。泉親衡は1211〜1213年にかけて、北条氏に対抗して源頼家の子、千寿を推戴して源氏将軍の復活を企てたものの、争いに敗れて鎌倉から逃亡し、飯山に逃れて出家したという伝説があります。しかし、おそらく「こじつけ」だと思われます。鎌倉時代の中頃以降に飯山土着の泉姓を名乗る一族が近隣一帯の豪族のなかに台頭し領主となって、現在の常盤から飯山市街にいたる一帯の開拓を指導したのではないでしょうか。
  その頃には千曲川の水量は大きく水位も高くて、現在、飯山市街となっている一帯は低湿地帯で、しかも増水氾濫による破壊力が大きかったので、泉氏の居館は、飯山城址の現在地(城山)ではなく、その西側の愛宕山と呼ばれる丘尾根に築かれたものと推定されます。当時、城山の周囲は水没していて、難攻不落であるものの、統治の拠点にもならなかったからです。この尾根裾には、今では称念寺や忠恩寺があります。城山に城館が築かれたのは、室町中期以降ではないかと見られます。
  その頃には、飯山盆地には泉氏のほかに上倉氏や奈良沢氏などが、周囲の山裾の扇状地の尾根高台に拠点を構えて、千曲川流域の低湿地の開拓を進めた頃でした。彼らはやがて、中野を本拠とする豪族、高梨氏の勢力下に取り込まれて、同盟して一帯の平和を保っていたようです。



▲ 愛宕山と呼ばれる丘尾根にある正覚院忠恩寺は歴代飯山藩主の菩提寺。鎌倉時代の領主館はこの丘にあったらしい。


  しかし、16世紀前葉になると甲斐の武田氏の信濃への遠征攻略が始まり、やがて、北信濃は武田氏と上杉氏の勢力が衝突し合う場となりました。飯山は上杉氏の勢力下に収まりました。高梨氏は上杉氏の家臣となりました。
  16世紀半ばには武田氏が北信濃を攻略したため中野の高梨氏は統治と防衛の拠点を飯山城に退去・後退させ、軍事的に泉氏や上倉氏、奈良沢氏を束ねて上杉勢力の南端を押さえ武田氏の侵攻に備えたそうです。



▲飯山城址公園 弓道場脇から二ノ丸へのぼる三年坂の石段

▲城址公園の丘は起伏に富んだ地形をなしている

  ところが1581年、高梨氏は本拠を上杉家の本拠、上越の春日山城に移し、飯山領と飯山城は泉家、上倉家、奈良沢家など地元衆が守備することになりました。しかし、武田家は飯山城や近隣一帯の城砦を攻略し、武田家と上杉家との一進一退の攻防が繰り返されることになります。このときに上杉家は奪回した飯山城を大がかりに改修して、現在の縄張り遺構に近い大規模な城郭を構えたと伝えられています。
  その頃――戦国末期――に川中島と呼ばれていたのは、犀川と千曲川に囲まれた現在の川中島よりもずっと広く、千曲川左岸の飯山から牟礼、長沼、栗田、御厨、杵淵、雨宮(水内郡と更級郡、埴科郡)におよぶ広大な地域だったようです。
  往時の地形・水系の古地理に即して川中島の戦いを語るなら、飯山から雨宮におよぶ一帯で繰り返された戦闘の総体を意味することになります。
  この川中島をめぐる争奪戦では、飯山城は上杉方が以南の戦場に赴くための拠点=出発地となったため、飯山城の防備を再構築する必要があったわけです。
  現在の川中島に当たる地帯は、江戸時代中期まで、犀川から30〜50メートルも標高が低い千曲川に向かって何百本もの小河川が北から南に向かって流れ下っていて、広大な湿地帯、沼沢地になっていました。水没しない「高台の島々」には古くから荘園や所領が開かれていて、ことに御厨一帯はその地名が示すように伊勢神宮と大和王権の直轄領(御料地)となっていました。御厨は、現在の川中島の中心部です。戦国大名は朝敵となる怖れがあるために、戦闘のさいに伊勢神宮の直轄地には踏み込むことはまず不可能でした。したがって、そこで上杉・武田の大軍勢が衝突することは考えられません。
  江戸時代の後半に書かれた『甲陽軍鑑』の合戦に関する記述は、往時の地形や水系にはまったく適合しない絵空事でしかないと言えます。
  戦闘の中心域は長沼や若槻などの平坦地や丘陵、そして更級郡や高井郡の山裾・山麓だったではなかったかと推定されます。



▲江戸時代の飯山城の見取り図(城址公園内の説明板から引用して編集)



▲飯山城址公園の絵地図
 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』4(2012年)

  飯山城を兵站拠点とした上杉家に対して、武田家は長沼城を前線の兵站拠点とし、その後詰めを松城城(松代海津城)としたもようです。
  戦の決着を見ないままに武田信玄と上杉謙信は病没しました。上杉家は後継をめぐって相続争いが起き、家臣団は景虎派と景勝派に分断され御館の乱が発生し、飯山城は景虎派が制したと伝えられています。
  結局、景勝が上杉家を継承して北信濃をめぐる戦争から身を引き、飯山城と飯山領を武田勝頼に割譲しました。飯山城は武田家の城砦となり、城代は祢津常安となりました。
  しかし、それから間もない1582年に織田・松平の同盟軍によって武田家は滅ぼされ、飯山城は織田家の家臣、稲葉彦六が占拠しましたが、地元衆や民衆の慰撫統治には失敗したようです。泉家、上倉家、奈良沢家に加えて芋川家など土豪や農民の叛乱が起きました。一揆勢は飯山城を包囲したものの、織田家の森長可によって鎮圧されてしまいました。
  ところが、まもなく織田信長が本能寺の変で倒れ、織田方の軍勢のほとんどが北信濃から退去します。地元の小領主たちのほとんどは上杉家に降伏臣従して、飯山城はふたたび上杉家の支配下に戻りました。岩井家が飯山城代を務め、地元衆の上倉家が副将、泉家や奈良沢家の家臣団が飯山に居住して屋敷街を営んで城下町の骨格ができ上ったそうです。このときに飯山城も大改修されて、今日に遺構を残す近世城郭となったようです。
  ところが1598年、徳川家を牽制するために上杉家は豊臣政権によって会津への移封を命じられ、岩井家をはじめとする上杉家の在地家臣団は飯山を去ることになりました。
  やがて、徳川幕府の覇権のもとで、大坂の陣の後には戦功を認められた佐久間家が飯山城主に封ぜられましたが、やがて家門は断絶し、その後多くの家門が飯山藩主として入封してきました。

  ところで、江戸時代の飯山城の縄張り(城郭の設計構想)を見ると、本丸は城山の南端で、北側から搦め手門、三ノ丸、二ノ丸という配置になっています。これは大きな謎、疑問です。郭の配置は北からの攻撃に立ち向かう構造になっています。にもかかわらず、「搦め手」とは裏側(背後)ということですから、本丸は南からの攻撃の前面に立つ縄張です。戦国時代には、そんな縄張りはありえませんでした。したがって、搦め手門という呼び名は、戦のない江戸時代になってからの名称ということになります。
  すると、城の構えの(縄張り)の基本構造は、武田家が上杉勢の北からの攻撃に備えるために組まれた形だということになります。ならば、長尾景勝が上杉家を継承して飯山を武田家に譲ってから、武田家が城をそのような縄張りに改修したのでしょうか。それとも、大坂の陣の後に入封した城主、佐久間家がこのような城郭に改造したのでしょうか。
  別の見方もできます。城山の南側の城砦構造と地形が、江戸時代に大がかりに改変されて城下町の街区となったため、戦国時代の縄張り――城山の南側の堀や段郭などの構え――はすっかり失われてしまった、という見方です。もうひとつの見方があります。戦国時代には本丸はなく、最も高い段郭に重厚な物見櫓があって、それが幕藩体制のもとで改修されて本丸になったという見方です。上杉勢が、南から攻め寄せる武田軍に対して前面に物見櫓を構えることはありえます。
  今に残る「天守台?」の遺構はきわめて規模が小さく、天守台というよりも物見櫓の土台と呼ぶ方が正しそうな形状です。江戸時代の縄張図でも、天守という表記はなく、二層の櫓が描かれているだけです。天守はなかったと見るのが妥当です。いずれにせよ、飯山城をめぐる史料は、決定的に重要な部分が欠落しているということです。