■第2白坂トンネル跡から歩く■
第2白坂トンネルの西端出口は扉でふさいである。開口部からはすごく冷たい風が吹き出して落ちてくる。まるで風穴のようだ。
駐車場の西端に雄報道の案内地図が設置してある。その脇から歩き始める。
旧篠ノ井線は、明科から潮沢川の渓谷を源流部近くまで遡行している。源流部は、筑北村乱橋の西側の尾根の下にある。

トンネル出口の下を源流部の潮沢が流れる

トンネル跡の脇の川岸では橋台建設工事
旧篠ノ井線は、第2白坂トンネルを出たところで潮沢川源流部の沢を越えることになる。線路は、小さな橋梁で沢を越えていた。
トンネル出口の上を通る国道403号は、この流れをカーブしながら橋で渡っている。この日、この橋梁の拡幅のために、新しい橋台建設工事をおこなっていた。
第2白坂トンネル跡の駐車場は土砂を盛って嵩上げしてあるが、本来の廃線敷は3メートルほど低かったようだ。
おそらく国道403号の建設のさいに、地盤の安定性や自動車の駐車場としての安全性・利便性のために、国道の路盤とほぼ同じ高さに嵩上げしたと見られる。したがって、この部分の廃線敷は埋もれて失われている。
旧篠ノ井線線の鉄路は、潮沢川の谷間に張り出した尾根裾を切通して敷設してあった【⇒尾根の開削工法の図】。したがって、廃線敷の南側には、いたるところで崖とも呼ぶべきような急斜面が迫っている。一方、廃線敷の谷側の縁に尾根末端の丘が残っているところもあれば、廃線敷の段丘面から渓谷に急斜面で落ち込んでいるところもある。
もともと脆くて土砂崩落が起きやすい砂岩地質の尾根を開削してつくった急斜面なので、土砂崩れの危険が予測できる地形なのだ。全般的に急斜面の擁壁底部には石垣が組まれていて、さらに石垣を覆う分厚いコンクリートを施して補強してある。
尾根から削り取った大量の土砂は、谷を埋めたり窪地を嵩上げし、地形による起伏を均して鉄道の路盤を平坦にする目的で利用された。
遊歩道の両脇には、ところどころに高さ6メートルくらいの鉄筋コンクリート製の電柱が立っている。これは電車用の架線を支えていた支柱だ。
廃線敷の遺構であることを明示するために残してあるのだが、多くは、遊歩道を整備するときに位置を変えて立て直したものだそうだ。

電車の架線を支えていた支柱も残っている

谷寄りの路盤脇に組んである石垣

急傾斜地に石を入れた蛇篭を積んで補強
線路の南側(山側)の斜面は急峻で、ところどころ小さな谷が刻み込まれている。そこを無数の小沢が流れ下ってつくったものだ。廃線敷に流れ落ちてくる沢筋はたいていコンクリートで覆って誘導し、線路盤の下を暗渠でくぐらせて、潮沢川に落としている。大きな沢には土石流を防ぐような堰堤や石組などが施してある。山側の廃線敷の脇には側溝がつくってあって、降雨のさいに斜面から流れ落ちる降水を誘導したり溜めたりするようになっているが、最終的には暗渠で潮沢川に押している。
遊歩道のところどころには、軌条(レール)と枕木を支えていたバラスト(砕石路盤)が残されている場所もある。バラスト路盤の上を往くと、少し歩きにくいが「ああ廃線跡を歩いているんだ」と実感する。遊歩道を整備するさいに周辺の斜面の山林を整備して伐採し、下草を丁寧に刈ってある。
廃線敷を囲んでいる山林の樹木の種類としては、主にケヤキやクヌギ、コナラ、カシワ、オニグルミ、タモなど。落葉広葉樹の山森となっている。
潮沢信号所は、旧篠ノ井線が単線だったので、駅ではないところでスイッチバック線路を敷いて普通列車を引き込んで待機させ、特急列車を先に行かせるために設けてあった施設だ。特急が通過した後で普通列車がスイッチバック引き込み線を戻って、再発車することになっていた。
本線路とスイッチバック線路には高低差はなく、それらは同じ路盤面の上で交差していた。
ところが今は、信号所跡の遊歩道部分に土盛りを施し、スイッチバック線路部分を削ってあるので、最大で2メートル近くの高低差がある。この辺りは地形と地質によって湿地になりやすいので、遊歩道の部分を安全に歩けるように嵩上げしたためではないかと推測される。
そこから800メートルくらい南西に進むと漆久保トンネル跡(遺構)に到達する。潮沢川が南東側の山腹斜面から流れ下る沢と合流する場所で、合流部の深い谷間に西向きに細い尾根が突出しているため、トンネルが建設されたようだ。尾根の南側は深い谷間となっている。かつては漆が自生して樹林をつくっていたので、漆窪(久保)という地名がついたのだろう。
幅が狭い漆久保の尾根を開削しないでトンネルを掘削したのはなぜか。おそらく、尾根の南側を流れる沢が滝となっているので、地盤の安定性を保ち度鞘崩れを防ぐために堅い岩質の尾根を全体として残す必要から、トンネルを掘る工法が選ばれたのだろう。
滝のように急勾配の沢を暗渠導水管で誘導して流水を潮沢川に落とし、その上に――尾根開削やトンネル掘削で削り取った――土砂を住み上げて、トンネルの南側の谷を埋めて路盤を構築したものと見られる。

こんな急斜面を開削して鉄道を敷設したのだ

東川手集落を流れる潮沢川
そこから遊歩道をおよそ500メートル歩くと、崖縁に電気転轍機がいわば史跡として置かれている。点鉄装置越しに、崖下には東川出の集落を見おろすことできる。ここは昭和中期まではもっと大きな集落だったが、今は過疎化して小さな村落として残っている。矢本寺という寺院があったらしいが、今では2棟の小さな堂宇だけが遺構として名残をとどめているだけだ。
廃線敷の下には東川手の阿弥陀堂があるが、これは矢本寺の遺構なのだろうか。
東川手の辺りでは、潮沢川は今では深さ5メートルくらいの護岸の底を流れている。普段は概して川の水深は30センチメートルあるかないかだ。しかし、大雨の後では護岸の縁近くまで増水することもあるらしい。
かつてはもっとひどく蛇行していたが、蛇行が越水や氾濫の原因になることもあるので、集落の近くでは流路を直線的に改修してあるようだ。
そこから林道を横切って越えたところから「けやきの森自然園」となる。廃線敷遊歩道の周囲の山林にはケヤキが多いが、自然園の辺りではことにケヤキの比率、密度が高い。
その理由は、ケヤキを植林したからだ。地元の人の話では、植林は廃線となる直前くらいから始まったらしい。もともとは線路の周囲の地盤を安定させるためにハリエンジュ(ニセアカシア)を植林したが、やがてハリエジュは植生を荒廃させてかえって地盤を脆くする原因となることが判明したため、ハリエンジュを伐採してケヤキを植え換えてきたのだという。
現在は、樹齢30〜40年くらいのケヤキが中心で、その後、種子で増殖したもっと若い樹木も多くなっている。
水内郡から筑摩郡にかけての山地には往古からケヤキが自生して樹林帯を形成していたので、古い時代の植生を復元するという役割もあるらしい。

端正に整備されたケヤキ樹林

踏切遮断器が廃線敷であることを主張している
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