■三五山トンネルをめざして歩く■
けやきの森自然園から西の遊歩道には路盤のバラストが残されていて、そこにところどころ土を盛った、歩きやすい路面となっている。標高はこの辺りで600メートルを下回ることになる。
けやきの森自然園の南側の地形は傾斜が緩い北向きの谷間だが、森が切り開かれて草地や低木の野原となっている。山林がつくる深い陰影は遠ざかり、頭上には広い空が広がって明るさが増し、心地よい開放感がある。
こんな地形となっている幅の広い谷間は、南から北に流れ下る潮沢川支流の沢が山腹を削って形成したものだ。この沢は廃線敷の北側の谷間に流れ下って潮沢川に合流する。
しかし、西に100メートルも進まないうちにふたたび深い山林のなかに入っていく。幅広の尾根の背がが潮沢の谷に迫っているのだ。とはいえ、遊歩道に迫る尾根の傾斜はずっとゆるくなって、廃線敷の幅も広くなっている。鉄道建設のさいに、ほかの場所で尾根から削り取った土砂を盛って路盤幅を広げてあると見られる。

右手は潮沢川に落ち込んでいく谷
尾根の背の森が迫る廃線敷を500メートルくらい進むと、またもや傾斜の緩い谷間に出る。この辺りも樹林が切り開かれている。遊歩道の段丘面の下を流れる潮沢川の谷間の幅がずっと広がって、遊歩道を歩きながら谷越しに北アルプスの常念岳を望むことができるところがある。
ここでは、国道403号からのぼってくる林道が廃線敷遊歩道と交差する。この林道は、かつては谷の奥にあった村落に行き来する道だったようだ。
開けた草地に丸太のベンチを置いた休憩所が設けられている。谷の背後の山腹は森が伐採されたあとの草地や背の低い叢林となっているので、そこから東側に、急勾配の尾根斜面を見あげることができる。斜面の上の山腹高台には、かつて集落があったという。
地図で見ると、現在の篠ノ井線のトンネルは、この集落跡の下を通り抜けている。
林道と廃線敷遊歩道との交差地から南西に400メートルくらい歩くと、潮沢川の峡谷に対して南東方向から北西向きに大きな谷間が降りていく地形となる。そこを廃線敷が横切っていく。谷間はスプーンで抉ったような地形で、ここに膨大な量の――長さ200メートルほどの区間に高低差にして10メートル以上――土砂を盛り積み上げて築堤し鉄道路盤を形成したことがわかる。
北西向きに開けた谷間が鉄道用築堤によって埋め立てられたのだ。谷底を流れ下ていた沢は築堤に阻まれて流れを変え、側溝に落とされ、そこから土管や暗渠水路で線路盤の下をくぐって潮沢川に水を落とすことになる。
この辺りから西におよそ2キロメートルのところで、廃線敷遊歩道は潮沢川の谷間から安曇野に出ることになる。そこから犀川を1キロメートルくらい遡った左岸には、ワサビ田が連なる北穂高の集落がある。その西方の彼方に位置する北アルプスの連峰を、この辺りの廃線敷遊歩道から西に遠望できる。
燕岳から南に大天上岳、常念岳、蝶ケ嶽が連なっている。

太陽光が入りやすい明るい山林風景だ

3つともに道祖神で、右端が浮き彫りの双代道祖神

覆い屋の背後は谷間の縁の険しい斜面
さて、開けた谷間の平坦地は数百メートルで終わり、尾根が迫って来る。ふたたび薄暗い山林に取り巻かれた廃線敷を歩くことになる。
廃線敷が尾根を横切り終わると、またもや谷間に出ることになる。今度の谷は傾斜も大きく、奥行きも深い。
ここで、この遊歩道から分岐して谷を見おろしながら南に進む細道を見つけた。細道は谷に落ち込んでいく急斜面にある。その道脇に道祖神の小さな覆い屋を見つけた。覆い屋のなかには、石塔に文字を刻んだ道祖神と庚申塔、そして双体道祖神を浮彫りにした舟形の石の3体が祀られている。
脇に黒御影石の記念碑があって、平成21年(2009年)に瓜ケ久保の住民有が道祖神と庚申塔をここに移設したと記されている。瓜ケ久保という集落は、この谷間の奥にあって、今はなくなってしまった村だろうか。道祖神と庚申塔が移設されたのは、おそらく集落の過疎化が進んで住民がいなくなり、維持が難しくなったためだろう。
さらに300メートルくらい西に進むと、廃線敷の谷側に開削された尾根の末端の丘が残されていて、丘の先端に大天白社が祀られている。遊歩道からは2〜3メートル昇っていくと狭い境内に神楽殿と社殿群が山頂方向に向いて置かれている。
大天白社とは、別の呼び名で大山祇(おおやまつみ)社のことで、オオクニヌシを祀り、各地にある山神社の総元締めということになっているようだ。社殿脇に、廃線敷の段丘下を流れる潮沢川沿いにある東平の集落から急斜面(崖)をつづら折りにのぼってくる参道がある。

本殿の脇の蓋殿内に並ぶ社殿

本殿と向かい合う神楽殿
東平は、明科の市街地から800メートルくらいの距離――峡谷から安曇野への出口――にある潮沢川の畔の集落だ。山林に囲まれているが、明科郊外の村落ということになる。
昭和末期までは、現在よりもずっと住戸・住民が多い集落だったようだが、現在はすっかり過疎化している。大天白社は、この村落の背後(北側)の高台に祀られた神社で、本来は山仕事の安全や山での収穫の豊かさを願う社だったと見られる。
社から800メートルくらい進むと三五山トンネルの東端にさしかかる。
この辺りは傾斜が緩い幅広の尾根が北に伸びている地形で、旧篠ノ井線はこの尾根を東から南に回り込む経路だった。トンネルはこの大きくて緩やかな尾根の背稜線を穿ってつくられた。
トンネルの入り口までは、緩い勾配の山腹斜面を切り通して長さ200メートルほどの鉄道路盤を敷設してある。だから、廃線跡は、両脇が切り立った谷底を直進するという形になっている。
トンネル内の鉄道経路は南に湾曲(中心角およそ120°)していて、長さはわすかに125メートルしかない。明治後期の工法では、トンネル建設は難工事となるので、できるだけ山腹を開削して、地下を往く長さを短くするようにしたらしい。

トンネルの扉が開いていて入ることができた
現在では、危険な地形を避けるために、むしろトンネルを長くする方が建設工法としては安全だという考え方が支配的だが、往時はそういう設計思想だったらしい。それにしても、当時の技術では、湾曲した経路でトンネルを掘削するのは大変な作業だったはずだ。
やはりトンネル内壁はレンガ積みとなっている。
廃線敷遊歩道を散策する観光客のために、トンネル内に入るとセンサーが感知して左右両側の電球が点灯するようになっている。それでも中はかなり暗くて、足元が頼りない感じがする。出口から外光が射してきた時には安堵感が込み上げてきた。
トンネルを抜けると、廃線敷はほぼ真南に向かうことになる。
山林のなかでトンネルに進入したけれども、出てみると景色は一変し、明科の市街地の風景となる。街並み風景を右手(西側)に見渡しながら廃線敷の段丘面の上を往くことになる。草地となっている遊歩道の両側には、桜並木が続いている。春にはみごとな桜の花見場所となるのだろう。桜の間にはところどころ廃線遺構の電柱が立っている。
桜の樹間から、明科の街の西側に北アルプスの連峰を眺望できる。蝶ケ岳から北側に常念岳を中心にして燕岳まで残雪の美しい稜線を眺めることができた。ここからは見えないが、この山並みの背後には穂高連峰から槍ケ岳までの壮麗な光景が続いているはずだ。
そんな想像をしているうちに、目の前に潮神明宮の社殿群が見えてきた。ここで、廃線敷遊歩道は終わりとなる。
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