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長野県上田市大手
 
 
上田城の今昔  

  上田城跡公園をめぐって現在の姿を眺めながら、城の今昔(歴史)を想いめぐらしてみよう。
  江戸時代までにつくられた日本の城郭の多くは、戦乱をともなった明治維新の変革によって焼失や破却など、大きな打撃を被った。変革が権力の転換である以上、新たな権力は過去の権力や権威、そしてそれに付随する文化の破壊を求めるのは避けられないことかもしれない。
  すでに見たように、上田城は関ヶ原の戦ののちに徳川家門によってひとたび破却され、仙石家の手で再建された。そして明治維新以後には櫓などが売却移築されたり解体されたりした。

▲真田十勇士隊のメンバー 上田城と街のPRに奮闘している。

  昭和期になって売却され移築された櫓を買い戻して復元してから現在にいたるまで、城の復元過程にあるということになる。
  しかし、経済成長が盛んだった頃には城の復元整備にはそれほど強い関心が集まらなかったようだ。櫓門が再建されたのは1994年で、バブル経済が破綻してもはや見るべき経済成長は期待できなくなった時代になってのことだ。歴史や伝統的文化に目を向けて、そこに街の活性化やアイデンティティの土台を見出そうということなのだろう。

■城の今昔を探る■

◆真田神社◆

  明治政府は自らの権威と正統性を誇示するために、幕藩体制期の建築や文化をむしろ疎外しようとした。
  上田城も破却され建物のいくつかは売却された。しかし近代化が進むと、上田の人びとの多くが、真田家の歴史や上田城を自らの(この地方の)アイデンティティの拠り所として回復しようと考えた。
  上田が蚕都として繁栄したこともあって、売却された櫓の買い戻しと再建とともに、真田家と歴代領主を祀る神社を城跡に建立して、成長する街のシンボルとした。それが真田神社だ。

◆真田井戸◆

  神社の社殿の南脇には「真田井戸」がある。この井戸はじつは、ここから3キロメートル余り北にある太郎山の砦まで続く抜け穴なのだという。
  万が一、敵側が城を完全に包囲したときには、太郎山の砦まで避難できるようになっていたという。また、砦から城内に物資を運び込む経路になるように考えられていた。


▲社殿の脇にある真田井戸

◆本丸の土塁と堀をめぐる◆

  本丸を取り囲む土塁と堀はほぼ全部残されている。土塁の土固めと地盤補強のために土塁斜面には樹木が植えられている。その多くは桜で、春には本丸と堀は花で取り巻かれ、絶好の花見場所となる。
  北櫓の脇からコの字型に反時計回りに土塁をめぐってみよう。
  土塁と堀を回って感じるのは、これだけの傾斜で堀を仕切る土手が崩れることもなく、長い期間保たれていることだ。水面近くから下は、水による浸食を防ぐため、石垣で補強した鉢巻土居になっているのだろうと思う。


▲本丸北側の土塁と堀▼

  江戸時代、仙石忠政は、本丸をコの字型に取り囲む土塁に合計4つの隅櫓を構築したそうです。本丸には合計7つの隅櫓があったということです。
  土塁上の4つの隅櫓は、石垣を築かずに礎石を敷いて土塁に直に立てられたようです。  


真田神社の拝殿

真田神社の本殿

本丸東側の堀 土塁上から見おろす
 
本丸東側の土塁 土手下は堀

本丸土塁の北西端
隅櫓の礎石が残されている。ただし
礎石は明治以降に移動させられている。

本丸西側土塁

土塁から本丸を見おろす。
今では樹林となっている。

本丸北側の堀

上田街あるき情報

真田期の上田城縄張り

  • 戦国時代末、真田家が領主だった時代の上田城の縄張りの復元推定絵図です。

上田城跡公園の案内図

  • 江戸時代の真田上の縄張り絵図
  • 現在の上田城跡の構造(遺構)の絵図
  • これらを比較できます。

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