◆真田期の上田城縄張り◆

絵図の出典:『ビジュアル・ワイド 日本名城百選』、2008年 小学館、p143

  下の絵図は、真田家が領していた時代の上田城の縄張り復元予測絵図だ。
  現在の上田城址公園の遺構には、真田期の城砦の構造はあまり残されていない。往時の構造や形状が判別できるほどに形をとどめているのは、全体の3分の1ないし4分の1ほどしかない(ほぼ本丸と二の丸)。
  戦国末期、関ヶ原の戦役ののち、徳川側によって堀は埋め立てられ、土塁もかなり崩されたためだ。しかし、幕藩体制のもとで初代領主の仙石家が、上田藩統治のための藩庁として、真田期の城砦構造をかなりの程度復元し石垣化した。
  しかし、明治維新とその後の「近代化」「文明開化」の影響と打撃は大きかった。「日本の近代」は、西欧の模倣から始まったせいか、残念ながら「日本の前近代」なるものの徹底的な破壊の上にしか、成り立たなかったようだ。二の丸でも西端は民有化されて、今では畑となっているし、二の丸東側の土塁はかなり形が変わってしまっている。
  それでも、この縄張り図のような史料を参考にしながら探り歩くと、本丸と二の丸については、昔の城砦の構造が想像できる。
  この縄張り図のように、本丸と二の丸という城郭の主要部の四辺がすべて囲まれることなく、一辺ないし二辺が断崖や湖水・河川などの自然地形の要害によって防御・遮蔽されている造りを「梯郭式」築城と呼ぶ。そして、この図面には、二の丸・本丸と谷を挟んで南東部に位置する三の丸が入っていない。
  三の丸が自然地形の谷を挟んで二の丸と連接するという点では、上田城は「連郭式」築城とも言えるだろう。曲輪(郭)の構造配置からすると、上田城は複合的な様式だ。三の丸には、眞田信之の治世化で、二の丸と本丸が徳川家によって破却されたため、藩主居館と藩庁が築かれて、藩政の中心部となった。
参考⇒江戸時代の上田城の構造……三の丸を含めた、より広い視野での上田城の縄張りがわかる。