北国街道の宿場街でもある城下町上田には数多くの寺院と神社があります。街歩きの一環としてここでは、上田城との位置関係を考えながら北国街道に沿って寺社をめぐり歩いてみます。
  散策場所として個々の寺社を紹介する前に、城と街道との位置関係における上田市街における寺院と神社の配置状況について私の考えを述べておきましょう。それは、上田城の防御システムならびに江戸時代の都市景観づくり戦略ともいえるものです。


▲上田市街北端の新田通り。写真左端は大星神社の叢林で、右端は新田公園【4月半ば】。

▲新田通りに沿って流れる黄金沢川の畔には桜並木。ここは新田公園緑地帯の一部。右手には大星神社や海禅寺、呈蓮寺などが並ぶ。

  上田市街のほとんどの寺院と神社は、上田城から見て北国街道よりも外側に、しかも街道よりも山手側に位置しています。これは、同じように北国街道の宿場街でもある城下町小諸にも共通しています。このことは、ともに江戸時代初期に城郭を大規模に改修築し、城下町を建設した藩主家が仙谷家であったためにそうなったともいえます。
  いざ戦いとなった場合に、街道沿いの寺社境内に兵員を配備して街道沿いに攻めくる敵を城郭側と寺社側から挟撃し、その進軍を阻止、撃滅するという軍事的な防衛構想があったと見られるわけです。
  つまり、領主家が同じだから、同一の城郭と城下町惣構えの防衛構想にもとづいていたのは当然だということです。しかし、信州の主要な城下町である松本、松代、高遠、飯山についても、城と街道と寺社の位置関係はほぼ同じ構想(戦略)にもとづいているのです。つまり、信州の主な城下町では、城郭・街道・寺社の配置は惣構え構想において同じ原則にしたがっていたのです。


小金沢川河畔の桜並木▲

  ところが、この防衛構想は、単に上記のような軍事的な観点だけにもとづいていたのではなく、街道を歩く人びと――住民はもとより外来の旅人――に城下町の品格ないし威容、つまり美しく立派に見せて、藩主の統治能力や財力――つまり徳と富――の高さを誇示するという目的も持っていたようです。これは、ニッコロ・マキァヴェッリの方法論を分析したイタリアの政治思想家、アントーニオ・グラムシの「ヘゲモニー理論」が日本の幕藩体制(領国統治)にも当てはまることを示しているのかもしれません。
  領国(藩)統治の安政性は、物理的強制力=軍事力だけでは保つことができず、知的・道徳的(美学的)な優位性を必要し、少なくとも外観上(城下町の美しさと威厳という見栄え)に表現しなければならない、というわけです。

  前置きはこれくらいにして、上田市街北端の新田通り沿いにある大星神社から始めて、矢出沢川北国街道の北畔に沿って神社や寺院をめぐり歩き、古い城下町、上田市街の姿を探ります。


◆大星神社をめぐる◆


▲石の大鳥居の脇には社務所がある

▲参道を進むと、朱の大鳥居の奥に拝殿がある。
 入母屋造りで唐破風の向拝。

▲拝殿奥の朱塗りの本殿

  古くから旱魃のさいには雨乞いの儀式をここで催していたと伝えられています。また、上田城の北東方向にあったため、近隣の神社や寺院とともに鬼門除けの鎮めとして尊崇されたそうです。

  矢出沢川の支流、黄金沢川の河畔にある神社で、924年に社殿を改築したという記録があるそうです。ということは、それよりも随分前から神社があったわけです。
  黄金沢川は太郎山の南東中腹から南麓に流れ、矢出沢川に合流します。
  この神社の北東には古墳があって、そこからこの辺りまでは、古代から神聖な場所として住民たちから崇められていたようです。



  祭神は健御名方命たけみなかたのみこ前八坂刀売命さきのやさかとめのみこと事代主命ことしろぬしのみことだとか。諏訪明神系の祭神だということは、こともとこの地の住民が祖霊を祀る社だったのかもしれません。
  10世紀末には大和王権(花山院上皇)から勅額3面――大法性、大法師、大星――を拝領したことから、大星明神と呼ばれるようになりました。
  ところで、大星神社里宮と呼ばれていることからすると、背後に迫る太郎山がご神体でそこに奥社があったのでしょうか。


  境内のなかの天満宮


◆海禅寺をめぐる◆


▲美しく咲く枝垂桜:後ろには庫裏が見える。

▲並木が影と木漏れ日を落とす参道

▲重厚な山門(薬医門)と漆喰塀

▲寄棟造りで唐破風向拝がみごとな本堂

どっしりした庫裏

▲端正な造りの聖天堂

 真言宗大智山金剛院海善寺と刻まれた門柱

  大星神社から新田通りに戻って、黄金沢川沿いに新田公園を見渡しながら500メートルほど南に下ると海禅寺です。私は芙蓉保育園南側を通る狭い路地(海禅寺の境内に属す)を塀沿いに歩いて、寺の参道に回ることにしました。というのも、庫裏の前に咲き誇る枝垂桜のみごとさに惹かれたからです。

  海禅寺は古くは開禅寺という名称で、平安時代開創され、その後長く東御市の開禅寺(海禅寺)という場所にあったのだとか。中世以来、小県郡の有力武将の滋野氏や海野氏――その傍系の真田家も含む――などの崇敬厚く、栄えていたそうです。東御市に寺号が地名として残されたのは寺領が存続したためと思われます。
  ところが、1583年の上田城築城にともない、真田家によって現在地に移設され、寺号が海善寺に改められました。その後、城の鬼門除け鎮護として歴代藩主家から厚く保護されるようになりました。

  平安時代に創建された真言や天台の寺院は、宗教施設であるだけでなく――今日の大学のように――学術研究の府でした。この寺にも学問所が設けられ檀林所(談林所)に全国から俊秀の学僧が集ったのだとか。ことに「現生利益」をモットーとする真言宗では、医療研究と住民への施療、農地の開拓、建築や土木、機織技術の伝習などをつうじて近隣民衆と深い結びつきを築いていました。

  境内には改築後まだ新しい寄棟造りの聖天堂があります。非常ん端正な造りです。例年、5月半ばには聖天祭が催され、地区の文化祭の様相を呈します。法要や説法などとともに音楽コンサートやワークショップが開かれ、多くの人びとが参集するそうです。

◆呈蓮寺をめぐる◆


▲海善寺の塀沿いに隣の呈蓮寺をめざす

▲寶池山呈蓮寺と刻まれた石製の門柱風冠木門(参道入り口)

▲杉並木の奥に山門が控えている

▲山門、右手には鐘楼、その奥に本堂

▲高い屋根の入母屋造りに唐破風向拝が重厚感を与える

 塀沿いの狭い道を抜けて隣の呈蓮寺の参道へ

  寶池山呈蓮寺は浄土宗の寺院です。この寺の由来に関しては、次のような伝承が残されています。
  12世紀末(鎌倉初期の建久年間)、敵討ちで工藤祐経を討った曾我兄弟の十郎祐成の妻妾、虎御前がこの寺院を開基したそうです。こういう経緯です。
  祐成の死後、虎御前は諸国を巡拝するうち善光寺に詣でた後、佐久に庵を結んだのだとか。やがて上田太郎山の麓の眉見林という場所に虚空蔵菩薩を祀る庵を結び、やがてそこに虎立山祐成寺として建立されたそうです。
  その虚空蔵菩薩は、虎御前が諸国巡歴のさいに背負っていた像――高さ30センチメートル弱――だとか。今でも虚空蔵堂が残されています。

  その寺院が呈蓮寺の前身だと伝えられています。
  その後、寺は荒廃したようですが、14世紀末〜15世紀はじめ(応永年間)の頃に、鎌倉光明寺の一誉俊厳上人が再興したそうです。
  1433年(永享年間)に現在地に移転して寺号を「呈蓮寺」と改めたました。



  本堂は1796年(寛政年間)に再建されたそうですが、唐破風向拝の下に大きな唐獅子が彫刻されています。
  この寺院には、地元出身の和算算術の学者・竹内善吾武信の墓があります。
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