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長野県上伊那郡辰野町〜塩尻市
 
 
小野宿の禅寺


▲山門を入ると広大な駐車場があって、その奥に庫裏客殿がある

  小野の駒沢川河畔の高台の上に位置する大きな寺院は、曹洞宗の有富士山祭林寺です。本尊は華厳釈迦牟尼仏、総本山は横浜市鶴見の総持寺と越前の永平寺の両寺だとか。
  鎌倉時代中期の1278年、僧弘秀によって駒沢川上流の天神山の麓に開基されたそうです。その頃は真言宗の寺院で、西蓮寺という寺号だったとか。ところが、足利期文明年間(15世紀末)に寺はいったん途絶えてしまいました。


石段の上に山門。入って左に鐘楼がある▲

  やがて戦国末期に1574年、曹洞宗の禅暁が禅寺として再興したのだそうです。ところが1611年、駒沢川の氾濫で堂宇をすっかり失ってしまいました。その44年後に現在地に移転して、近隣の東光寺を併合して堂宇を再建し、寺号を祭林寺と改めました。
  再建の後、塩尻の西福寺を本寺とする末寺となったそうです。その後、祭林寺には優秀な住職が続き、永平寺貫首として迎えられた者もいたのだとか。こうして名声を高めたのですが、幕末から昭和期まで、幾たびも火災に見舞われ堂宇焼失と苦難の再建を繰り返しました。

■たびたび災禍に遭い再建を繰り返す■


▲しだれ栗交差点からの上り坂道

  祭林寺は、国道153号を小野上町の「しだれ栗」交差点で西に折れ、駒沢川に沿って坂をのぼる旧三州街道の北側の高台にあります。現在は広壮な本堂や重厚な庫裏客殿、位牌堂などが並んでいますが、幕末以降、何度も火災に遭って建物を焼失し、苦難の末に再建を繰り返してきました。


▲石段をのぼり山門をくぐると境内

  記録によれば、安政年間(1859年)に小野宿に大火が起きて町が全焼し、この寺も類焼して寺宝文物の多くを失ってしまいました。このときは6年の歳月を費やして堂を再建することができたそうです。
  明治初期には神仏分離(廃仏毀釈)によって矢彦神社の別当寺、真言宗矢彦山神光寺が廃されたため、その本尊の大日如来と脇本尊の薬師如来を祭林寺に移設しました。明治7年には曹洞宗の両本山から常炬會(じょうごえ)という高い寺格を認められたとか。
  ところが、1925(大正15)年、さらに1931(昭和6)年に相次いで小野街の火災でこの寺は堂宇のほとんどを焼失してしまいました。不況下で再建計画も遅滞するうちに第二次世界大戦に突入したため、再興の機会はなかなか訪れなかったようです。


▲裏手の墓苑から堂宇群を眺める

  ようやく1949年、本堂再建に着手し、1964年に梵鐘と鐘楼を再建しました。そして1987年から90年にかけて庫裏客殿、位牌堂を新築、住職居宅の改築をおこなったといいます。


▲墓苑の端に立つ延命地蔵尊像


駒沢川の畔をのぼる旧街道

旧街道北側の高台の上に境内がある

三門と鐘楼

山門脇の六地蔵
境内西(墓苑)端から鐘楼と本堂を眺める。
以前はここにケヤキの老巨樹群があったとか。

広壮な本堂。その奥は住職住居。

庫裏客殿の背後には位牌堂がある
位牌堂裏の墓苑

住職住居と裏庭


小野上町の家並みの上にひときわ高く屋根を見せる祭林寺。背後の山は霧訪山。

 
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