街道としての中山道と宿駅の仕組み その1

  街道制度としての中山道と宿駅の仕組みや機能については、すでに木曾路の事情に即して解説してありますので、この記事を読むときは、それを参考にしてください。。

■東山道から中仙道、さらに中山道へ■

  中山道の前身である東山道は、すでに奈良時代から大和王権の都と東日本を――中央高地を経由して――連絡する公道・軍道として形成されていました。基本となる路線は、奈良や京都から近江と美濃を経由して信濃に入り、妻籠奈良井を経由して碓氷峠を越えて関東平野に出るコースでした。⇒信濃の諸街道絵地図


鳥居峠の山中を往く今の中山道▲
江戸時代には、おそらくこの3分の1ほどの道幅で、下の写真のように、人2人がすれ違うのも難しかった。

鳥居峠の中山道は杣道だった▲

  しかし、信州中央部から東部にいたる山間地を抜けるコースは――土石流や山崩れなどの災害も頻発したこともあって――何度も変更され、複数のコースが並存することもあったようです。たとえば、贄川から塩尻・松本平を経て青木村あるいは鹿教湯温泉郷を抜けて上田小諸、佐久に向かうこともあれば、贄川から牛首峠や小野峠を越えて諏訪湖畔に出て、下ノ諏訪を経由して和田峠を越えることもあったようです。
  また、贄川から北上して野麦峠越えの道と合流して松本平を横断し、薄川沿いに美ケ原高原南端の谷間を抜けて茶臼山を北に迂回して野々入川の渓谷を下って和田郷の北端に出るコースもあったと伝えられています。和田郷の仮宿という地籍は、その頃、旅行者が宿を借りた場所だといわれています。
  そして、戦国末期までには、贄川から牛首峠を越えて三州街道と連絡し、さらにいくつも峠を越えて下ノ諏訪にいたり、和田峠を越えて依田窪、笠取峠から芦田を経て佐久に向かうコースが定着したようです。


▲和田郷の仮宿地区。右の集落は久保
画像中央の山は城山(上ノ山)で、江戸時代の中山道はこの尾根の東(左)側を通っていたが、東山道は西(右)側の谷間を通っていたという。

  さて戦国末期に徳川家の覇権が確立すると、1602年に牛首峠から諏訪湖畔にいたるコースが「中仙道」として制定されました。ところが、まもなく交通と物流の安全性と効率化のために贄川から本山宿、洗馬宿を経て塩尻宿を回って塩尻峠越えに諏訪湖畔にいたる街道が整備されました。
  このコースは、1616年の塩尻宿開設から100年後(1716年)に「中山道」と呼称が変更されました。ただし以下では簡略化のために、17世紀を含めて、江戸時代のこの街道をひとくくりに中山道と表記することにします。

■宿駅集落と農村秩序■


妻籠宿寺下の街並み▲

奈良井宿中町の街並み▲

  さて、江戸幕府が定めた中山道では、1里を36町と定めた里程標として一里塚が設けられました。そして通常、2里ないし3里ごとに宿駅(宿場町)が開設されていました。ところが、下ノ諏訪から和田宿までの和田峠越えの道のりは5里半もあって、しかも峠の最頂部が標高1640メートルにもなる険路で、中山道一の難所となりました。

  これらの宿駅のほとんどは、中山道の開設に間に合わせて集落を新たに建設し、近隣の農村集落から住民を移転させて、駅逓輸送と宿泊・休養の機能を整えました。つまり、宿駅集落は圧倒的に農村的な環境にあって、そのため、宿場町の統治行政のためには、戦国末期までに成立していた農村秩序と村方役人制度――名主(庄屋)・組頭・長百姓など――を流用ないし転用することになり、そういう在地村落の富裕な特権的な有力者を宿場役人としました。
  宿駅集落には、本陣・問屋・脇本陣、さらにこれらを補佐する年寄という役職が設けられ、名主などの在地有力家門が幕府によって任命されました。そういう有力者の多くは、たとえば馬籠や妻籠のように、伊那・中津川などほかの地方から移住して五街道制度の建設にともなう集落建設や農耕地開拓を指導した郷士層もいました。
  ところが、鎌倉ないし室町期以前からすでに東山道沿いの都邑を形成していた集落、たとえば奈良井や福島、下ノ諏訪などでは、農村的な秩序よりも商業都市的な趣が強い統治機構を形成したと見られています。

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