■臨済宗から曹洞宗へ■

仁王門の背後の崖をのぼる石段

石仏群のなかに山伏家の記念塔がある

近隣から集められた石仏が並ぶ
保福寺もそういう密教寺院が前身だったとみられます。ところが、平安末期までには戦乱による破壊や交通途絶などによって衰退・荒廃してしまったようです。
やがて臨済宗の禅僧たちによって、自派の禅刹として再興再建する運動が展開したものと見られます。このような荒廃した古刹の再建復興としての仏教ルネサンスはその後も曹洞宗や浄土宗の僧たちによって波状的に繰り広げられていったようです。
さて、この寺を臨済宗の禅刹として新に開山したのは、中国からの渡来僧、蘭渓道隆禅師でした。1268年(文永5年)、諸国巡錫の途次、この荒廃した寺域に庵を結び、鎌倉建長寺の末寺として発足の起点を築いたようです。
鎌倉幕府は禅寺を手厚く支援したようで、その5年後、寺に朱印状を与えて助成し、保福寺山中原寺という寺号で堂宇の再建を手がけました。禅師は寺院を永安山保福寺と改号したそうです。

境内の南端は崖ぎわ

重厚な本堂は禅堂も兼ねているようだ
ところが応永年間(1407年)からおよそ100年間寺は無住となって、衰微荒廃してしまいました。やがて1502年(文亀2年)、信濃守護職の小笠原家の菩提寺、龍雲山廣澤寺の住職、雪天禅師を招いて開山し曹洞宗の禅刹として再興再建したと伝えられています。
しかし1552年(応永14年)、この一帯は小県方面から松本に向けて進撃してきた武田家と小笠原家との戦場となって戦火を浴び諸堂は焼失してしまいました。その後長らく衰微し、再建が始まったのは1627年(寛永6年)で、正徳から宝暦年間(18世紀前期〜半ば)にかけて堂塔伽藍が再建されていったそうです。
ところで、仁王門の脇に並ぶ石仏群の一隅に「山伏家」という小さな石碑が立っています。これは、この寺院の前身として、あるいは近隣に密教(山岳)修験の霊場があったことを示す記念碑ではないでしょうか。
保福寺が密教修験の衣鉢を継いでいるであろうこと根拠となる事実は、本尊が千手観音であることです。千手観音は最初期には渡来人による仏教文化の伝来にともなっていて、真言宗や天台宗によって体系化される以前の始原的な山岳信仰や密教修験のなかで崇敬されていたのです。

本堂前の釈迦牟尼仏座像

本道と庫裏を結ぶ回廊

保福寺が位置する尾根高台
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