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長野県松本市保福寺町
  古代に平城京から美濃〜伊那谷〜松本を経て上田の信濃国府に連絡した官道(東山道)の遺構に沿って切り開かれた保福寺道。保福寺峠を越え、青木村、塩田を経て上田平に向かいます。
  禅刹、永安山保福寺は、難所峠の入り口の宿場街の外れの尾根高台に位置しています。言い伝えでは、保福寺峠を取り囲む険しい尾根峰に古代につくられた密教寺院があったそうです。
【写真:保福寺川の谷間に突き出た尾根裾の仁王門】

    筑摩地方の山寺めぐり

 
■古代の密教霊場の衣鉢を継ぐ寺院か■  


保福寺宿跡の街並み(公民館前)。街道の路面は起伏に富んでいる。▲

  信州における奈良時代の官道は、越後や関東地方に向かう道として建設されましたが、険しい山中に交通路を開拓することとて、山岳地理に通じていた初期の密教の修験僧や山岳信仰の修行者による案内や同行を必要としていました。王権の活動は当時の科学技術としての仏教と結びついていて、土木建設の技術を担っていたのは仏僧や渡来人としての工人集団でした。
  というよりも、官道は地方に大和王権の行政官や軍を派遣する交通・通信装置であって、その建設は王権の権力と権威を地方に誇示し伝達する仕組みの構築にほかなりません。官道建設には、王権の権威を裏打ちする思想としての仏教の普及が不可欠でした。


▲保福寺峠に向かう旧街道沿いの家並み。路面脇の段丘崖の下を流れる保福寺川

  仏教は初期密教や山岳信仰と深く結びついていました。東山道の中核的な拠点、上田地方には信濃国府と国分寺・国分尼寺が創建されました。
  したがって、信州を往く官道としての東山道の幹線や支線は、すでに山岳信仰=密教修験の拠点が開かれている地区の近隣を通過するか、官道建設に山岳信仰=密教修験の霊場の開設がともなったと見ることができます。
  とりわけ山岳地帯の峻険な峠越えの前後の土地には初期密教修験の霊場が建立され、それらは平安時代中期までには真言または天台の有力密教寺院となっていったものと見られます。





▲段丘崖下の仁王門の脇に並ぶ石仏群


▲石塔型の馬頭観音や道祖神、二十三夜塔などが並ぶ


▲ここで駐車場から廃線敷遊歩道に降りていく


▲石段の途中から振り返って仁王門を見おろす


▲石段をのぼった尾根上の高台段丘面に本堂や庫裏、鐘楼がある


▲本堂の東側に庫裏・客殿が設けられている


▲段丘面の南西端近くに置かれた鐘楼


▲本堂東脇からの眺め


▲本堂裏手から背後の崖上の観音堂にのぼる急傾斜の回廊


▲背後の斜面にある墓地から本堂を眺める

■臨済宗から曹洞宗へ■


仁王門の背後の崖をのぼる石段


石仏群のなかに山伏家の記念塔がある


近隣から集められた石仏が並ぶ

  保福寺もそういう密教寺院が前身だったとみられます。ところが、平安末期までには戦乱による破壊や交通途絶などによって衰退・荒廃してしまったようです。
  やがて臨済宗の禅僧たちによって、自派の禅刹として再興再建する運動が展開したものと見られます。このような荒廃した古刹の再建復興としての仏教ルネサンスはその後も曹洞宗や浄土宗の僧たちによって波状的に繰り広げられていったようです。
  さて、この寺を臨済宗の禅刹として新に開山したのは、中国からの渡来僧、蘭渓道隆禅師でした。1268年(文永5年)、諸国巡錫の途次、この荒廃した寺域に庵を結び、鎌倉建長寺の末寺として発足の起点を築いたようです。
  鎌倉幕府は禅寺を手厚く支援したようで、その5年後、寺に朱印状を与えて助成し、保福寺山中原寺という寺号で堂宇の再建を手がけました。禅師は寺院を永安山保福寺と改号したそうです。


境内の南端は崖ぎわ


重厚な本堂は禅堂も兼ねているようだ

  ところが応永年間(1407年)からおよそ100年間寺は無住となって、衰微荒廃してしまいました。やがて1502年(文亀2年)、信濃守護職の小笠原家の菩提寺、龍雲山廣澤寺の住職、雪天禅師を招いて開山し曹洞宗の禅刹として再興再建したと伝えられています。
  しかし1552年(応永14年)、この一帯は小県方面から松本に向けて進撃してきた武田家と小笠原家との戦場となって戦火を浴び諸堂は焼失してしまいました。その後長らく衰微し、再建が始まったのは1627年(寛永6年)で、正徳から宝暦年間(18世紀前期〜半ば)にかけて堂塔伽藍が再建されていったそうです。
  ところで、仁王門の脇に並ぶ石仏群の一隅に「山伏家」という小さな石碑が立っています。これは、この寺院の前身として、あるいは近隣に密教(山岳)修験の霊場があったことを示す記念碑ではないでしょうか。
  保福寺が密教修験の衣鉢を継いでいるであろうこと根拠となる事実は、本尊が千手観音であることです。千手観音は最初期には渡来人による仏教文化の伝来にともなっていて、真言宗や天台宗によって体系化される以前の始原的な山岳信仰や密教修験のなかで崇敬されていたのです。


本堂前の釈迦牟尼仏座像


本道と庫裏を結ぶ回廊


保福寺が位置する尾根高台

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