
▲刈谷原大門から県道302号(善光寺道遺構)に出て北上する

▲板場集落入り口で県道から上の段丘にあがってきた

▲この小径が善光寺道の遺構につくられた道路

▲保福寺川を渡って取出の集落に入った。右脇が浄雲寺の境内。

▲台地の西端の段丘斜面に浄雲寺の境内がある

▲参道石段をのぼって楼門の下をくぐる

▲楼門は12脚で支えられていて、仁王門様式ではない

▲実に美しい曲線を描く本堂の寄棟屋根

▲本堂と隣接する庫裏棟

▲楼門と本堂の間に設けられた小ぶりな鐘楼 |
◆取出の浄雲寺をめざす◆

板場の旧街道。この丘の下で保福寺川を渡る。
旧善光寺街道の跡は、今では板場まで県道302号を往く道路となっています。ところが、板場バス停の近くで西に分岐して、ひとつ上の河岸段丘面にある板場集落のなかを北上する小径になります。
錦部・刈谷原から会田までは保福寺川の谷間を往く道です。板場までは川の左岸の河岸段丘面を通っていて、そこで保福寺川の右岸に渡ることになります。対岸は取出という集落です。
取出は保福寺川と穴沢川に挟まれた舌状台地の丘にある地区で、この2つの川は会田で会田川に合流することになります。
刈谷原から会田までは保福寺川の勾配はかなり緩やかなので、河岸段丘上は安全な農耕地開拓や集落建設が可能だったはずです。もちろん、ときには豪雨の後に保福寺川が暴れて反乱を引き起こすことはあったでしょうが。
してみると、反町、板場、取出には多くの農民集落が形成されていて、住民人口も多かったでしょう。豊かな農村風景があったはずです。しかし、現在は過疎化が進んで、小さな集落が残っているだけに見えます。

念仏塔、如来坐像、青面金剛などの石仏

本堂前から眺めた楼門の姿

横から眺めた楼門の形
さて、今回の旅の目的地、取出の獻欣山欣山浄雲寺は保福寺川を見おろす河岸段丘の上、舌状台地の裾に境内があります。
舌状台地は往古、樹林におおわれた丘になっていましたが、今は水田を中心とした広大な農耕地が開かれ、台地の縁斜面だけに輪郭をなぞるように樹林帯が続いています。浄雲寺の境内の背後には、この樹林帯が迫っています。
この浄雲寺の宗旨は浄土宗で、江戸時代前期の作と見られる阿弥陀如来立像が本尊だそうです。
楼門は江戸時代中期よりも古い時代の造りを保っていて、もともとは室町中期に建立されたのではないでしょうか。しかし、寺の由緒来歴については――創建当時からこの地にあったのかということも含めて――まったくわかりません。
古代に創建されたものの衰微荒廃した密教寺院を浄土宗の僧たちが復興再建した寺院かもしれません。
取出集落や板場集落の人びとの信仰の場であったということなので、これらの村の歴史を考えてみましょう。
保福寺川の対岸、浄雲寺から見て北西方向の板場集落の丘に諏訪社があります。諏訪社は室町時代から江戸前期にかけて、水田開拓を進めるために近隣農村の開拓農民たちを結集・連帯させるために創建された場合が多かったようです。
そうすると、取出や板場の村落は室町時代から戦国時代を経て江戸時代前期までに開かれたのかもしれません。とはいえ、近隣の錦織部や会田には平安時代末には集落があったため、取出の集落もその頃からあったかもしれません。

本道を北傍らから見た姿
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