刈谷原の性徳山洞光寺は、9世紀前半(820年代)に弘法大師によって開基されたと伝えられる真言密教の古刹です。
  ここには平安時代に大和王権と結びついた錦織部郷の荘園や官衙があったことから、定額寺としての密教寺院――寺号が錦織寺だったか――があったとも伝えられていて、これが洞光寺の前身の寺院だったとも推定されています。


◆古代の有力官衙に付随した定額寺だったか◆


現在の参道終点にある薬師堂(瑠璃殿): 往古、本堂に付随する本尊を祀った伽藍だったらしい



▲善光寺道からの参道入り口。総門はなく石仏の列と石段だけ。


▲石仏群の列に導かれて藤棚をくぐる


▲参道の南側は斜面の草地と畑で、湿地跡・段郭跡が見える


▲洞光寺の本尊薬師如来を祀った伽藍は瑠璃殿と呼ばれる


▲薬師堂の背後は墓地。往古ここに七堂伽藍が並んでいたか


▲薬師堂と向かい合っている地蔵尊小堂


▲3対が向き合う六地蔵が石段の終点


▲薬師堂(瑠璃殿)は江戸時代に再建立されたと見られる


▲瑠璃殿と本堂との間に池がある:池畔が浄土と仮託される


▲青瓦葺きの現本堂。昭和前期までは茅葺だったか。

◆古代の有力大寺院だったか◆


石仏の列に導かれて参道を進む


参道の先の石段の上に薬師堂がある

  9世紀頃までは仏教は大和王権の権威を裏打ちする宗教思想(イデオロギー)だったといわれています。王権は、律令制にもとづく地方国(統治管区)ごとに国府に国分寺・国分尼寺を建立して、仏教思想の威光によって大和王権の権力を支える仕組みを構築しました。
  さらに、高僧や有力地方豪族などによって自立的に開基または創建された寺院を、国分寺・国分尼寺に準じる格式・地位を与えて王権との結びつきを強めて、仏教思想によって大和王権の統治を正統化したと見られています。

  ところで、洞光寺の境内は、古代の官道の遺構に開削されたとされる善光寺道に面して位置しています。この辺りには、平安時代、上田国分寺や塩田平、青木村そして麻績とを結んだ連絡路(官道)の分岐点=要衝にあった錦織部を統治する官衙があったと推定されます。そういう歴史的・地理的条件から見て、洞光寺の前身が定額寺だったのではないかと推察されるわけです。

  洞光寺の本尊は薬師如来ですが、それは、ここに集っていた数百人にもおよぶ真言密教の僧たちのなかに高度な医療知識をもつ者が多く、現生利益の発想に導かれて民衆に医療や養生の場を提供していたとことを物語っているとも見られます。その点では、塩田平の真言密教寺院群との関連が想定できるでしょう。


瑠璃洞はきわめて端正な入母屋造りの


池にはコイやフナが遊泳している

  寺伝では、洞光寺は――定額寺だったと見られるように――七堂伽藍を備えた大寺院だったけれども、平安末期から何度か戦禍に遭い、戦国時代には戦乱によって焼失してしまい、古代から中世まであった堂宇で残っているのは薬師堂だけだとか。瑠璃殿と呼ばれたこの薬師堂を中心に多くの堂塔伽藍が配置されていたと見られます。
  旧善光寺道の脇に洞光寺の門柱や石仏群があって、そこから薬師堂まで続く参道脇には、境内の背後の城山に向かって棚田跡のような段郭地形が残っています。今は畑作地や遊休草地です。池や庭園、築山の痕跡も残っているようです。そういう地形から推定すると、参道脇には多数の塔頭支院が並んでいて、寺町集落を形成していたものと見られます。
  この辺りの古い地名は大門と呼ばれていたことからすると、有力な寺院の総門あるいは山門の奥に堂塔伽藍や宿坊が並んだ寺町があったのではないでしょうか。幕末まではそういう有力な密教霊場・修験拠点の寺としての名残りがあったけれども、明治維新と廃仏毀釈によって破却されてしまったとも考えられます。

  現在の本道と庫裏は薬師堂の北側にありますが、中世までは、旧街道から連なる塔頭支院の堂宇群の奥に薬師堂が控えていて、今では墓地となっている背後の斜面に本堂や伽藍が連なっていたのではないでしょうか。


高い格式だったか、みごとな造りの唐破風

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