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長野県青木村
 
  大法寺の三重塔が現在地に建立されたのは1333年だということです。
  大法寺はかつては大宝寺と表記されていたのだとか。開創が、奈良時代よりも古い飛鳥時代の末期頃、大宝年間(701~04年)だったからだそうです。
  現在の宗旨は天台宗ですが、天台密教が成立するのは9世紀はじめですから、それよりも100年ほども前に創建されたということになります。

 
東山道の浦野駅に属す寺院か  


▲高台段郭に位置する観音堂と背後の壇上にそびえる優雅な三重塔

  日本の古刹はその起源や創建の由緒がわからないものがほとんどです。時代が古く、また格式が高い寺院は、栄枯盛衰の波にのまれ、その時々の統治や権力闘争と絡んでいて、戦乱などに巻き込まれる場合が多いからです。
  一乗山観音院大法寺もまさにそうです。とはいえ、大正時代に三重塔を解体修復したさいに、棟札から鎌倉末期1333年に現在地に建立(再建)されたことが判明しました。ところが近年、寺の起源、開創はそれよりも600年以上も古いことがしだいにわかってきました。

■浦野庄の歴史と大法寺■

  大法寺の起源と歴史が再発見された背景には、古代の統治システムについての見方の発展があるようです。大和朝廷の支配が全体におよんでいたと見る方法から、当時の日本の統治システムが有力地方語句族が地方君侯(地方の王)となっている多数の侯国の集合だったと見る方法が優越するようになったのです。
  そうなると、統治機構ならびに交通体系としての五畿七道の仕組みについての把握の仕方もより実態に即したものに進化しました。ことに交通路としての七道、信州では東山道が蝦夷征討での役割よりも、地方諸侯国(地方豪族層)への権威・権力・統治情報の伝達という側面に光が当てられるようになったのです。
  さて東山道は、飛鳥時代に大和王権の影響力や権威を地方に伝達し、地方豪族を中央王権に帰順させ、地方統治の担い手として包摂する仕組みとして機能したようです。となると、東山道の駅制も地方の有力豪族に王権の統治体系の一環を担わせる仕組みだったということです。
  現青木村は、当時その主要部が浦野庄で、8世紀までは大和王権直轄領(公領)と荘園が隣接し相半ばする状況だったようです。豪族は自らの荘園所領の開拓と統治とともに、その所領からの収入をもって公領の官衙(国衙)の運営にも参加し、大和王権の権力と権威を体現する制度として東山道浦野駅を統治・運営することになっていました。
  駅寺の建立にさいして、大和王権は限られた人数の大工などの専門家集団を指導者として派遣しましたが、在地の豪族は自前の権力と富をもって地場や近隣の職人を雇い動員したようです。そのさい、地場の山間に居住していた――技術や知識を保有する――渡来人集団に大きく依存したものと見られます。


大榧の根元近くに祀られた石祠群

  律令制のもとで東山道は、平城京や平安京から信濃国の国府としての上田(塩田平を含む)に連絡し、中央から権威を伝達し、軍や役人・使節を派遣する交通路となっていました。浦野駅は、大和王権の権力中継・伝達する拠点として機能し、在地の豪族は官位を与えられてそういう拠点としての役割を担いました。
  その拠点集落(都邑)に属す寺院が駅寺でした。大宝寺は、王権の権威の伝達経路としての都邑の統治機構の一環である宗教装置として浦野庄に開創されたと見られます。
  ところで、東山道は飛鳥時代から平城期前期にかけてつくられた古東山道と、それ以降、いったん確立されしだいに変容していく律令制のもとで建設された令制東山道の2つが区分されるようです。
  浦野駅とこれに付随する寺院としての大宝寺は、古東山道の時代に開創されたと見られます。


▲観音堂や三重塔の段郭上に導く参道石段


身舎が細く屋根が広く逓減率が絶妙な造りの塔

  古東山道は幹線としては、美濃国から御坂峠を越えて阿智駅から伊那谷に入り宮田駅に連絡し、そこから高遠方面に向かい、杖突峠を越えて茅野いたり、諏訪湖の東岸から和田峠あるいは大門峠または麦草峠を越えて佐久平をめざしていたと推定されます。
  他方で、その支線として2つの経路があったようです。一つ目は、茅野から諏訪湖北畔に出てそこから塩尻、松本平の東端を北上して保福寺峠を越え、青木村(浦野)を経て塩田・上田平から小諸を通って佐久にいたる道。ふたつ目は、宮田駅から箕輪・辰野・小野を経由して塩尻・松本にいたる道です。8世紀前半から半ばにかけて律令制のもとで東山道が建設されていきました。

  ところで、律令制が構想として定式化され大宝律令が発布され、各地方での農耕地開拓・開墾や農村建設が本格的に展開したのは、墾田の私有権が認められるようになってからのことでした。大和王権は直接に各地方での開拓や統治を担うことができず、農村共同体を統治する地方豪族・有力者の指導下で農村開拓が進められるしかない以上、律令制が変容して荘園制へと変貌するのは避けられませんでした。
  大和王権が地方豪族を誘導しながら官道として本格的に東山道を建設するのは、そういう時代でした。
  ところで、大法寺の現在地が古代の駅寺(大宝寺)が創建された場所なのかどうかは不明です。平安時代から鎌倉時代にかけて大宝寺は衰微荒廃し、鎌倉末期に現在地に三重塔と堂塔伽藍が再建されたとはいえ、元来の所在地はがそこだったかはわからないのです。
  子檀嶺岳は往古、現在のように樹林におおわれておらず岩壁が露出してそびえていたそうですが、それはいかにも密教修験霊場の趣きです。古代には、天台密教寺院としての大宝寺は子檀岳の南麓にあった可能性もあるでしょう。
  保福寺道跡から山腹高台に位置する大法寺に向かう参道は斜面をのぼる小径です。地形を探りながら参道を歩いてみると、道の両脇には棚田跡のような段郭が連なっています、往古ここは天台密教の修験霊場で、大法寺の塔頭支院が並んでいて、それらは宿坊だったのではないかと推定できます。
  現存の大法寺本堂は密教霊場の宿坊のような造りになっていますが、そのような堂宇が参道沿いに階段状に並んでいたのではないでしょうか。


三重塔の下の谷間の段丘に並ぶ本堂と庫裏▲


講堂または伽藍というよりも宿坊風の構えの本道▲


山腹斜面の段郭に構えられた本堂と庫裏▲


鎌倉時代から生きていると伝えられる大榧▲


寺下の集落集会場脇から本堂がある方向を見上げた眺望▲


大法寺参道の入り口: 参道は急斜面をのぼっていく▲


参道沿いの家屋は階段状の段郭のような敷地▲


石垣は棚田を支えるというよりも宿坊の段郭敷地の支えか▲


段郭構造は古いが、石垣は明治以降に組まれたようだ▲

背後の丘の梅林から等を見おろすと一段と美しい▲
 

◆興隆寺 Googleマップ◆