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文法と哲学

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3 文=命題と数理学

  日本の初等教育では、国語と数学・算数とをあたかも別の分野のように分離して教育します。ところが、はじめに説明したように、文・文章とは判断を下し、命題を成り立たせていく作業(の過程ないし結果)であるということから、じつは数学や自然科学と大部分が重なるというよりも、ほとんどイコールの世界ともいえます。少なくとも、ここで学ぶはずの論理的な文・文章については、そうです。
  したがって、文には数理学的な法則や推論とか判断が含まれています。
  その基本に、文=命題の「真偽判断」という作業があります。それは、1つの文が意味する「主語=述語」関係のなかに、仮定(=前提)と結論(=結果)の関係を読み取り、その仮定から結論に導く関係が正しい(真)か誤り(偽)かを判定するゲイムです。

  たとえば、
  @ 犬は動物だ。
  A 動物は犬だ。
という2つの文があります。このうち、@は真で、Aは偽です。
  この真偽判断にあたっては、主語と述語の本体の意味内容を「集合論」「関数」として考えることになります。
  @では、「犬は」という文節が《その存在は犬である=P》という仮定の部分をなし、「動物である」という述語が《であるならば(ゆえに)、その存在は動物である=Q》という結論の部分が連結しているのです。《P→Q》の連関です。つまり、主語は仮定、述語は結論という役割を演じている命題なのです。
  《 if … then … 》命題ともいいます。
  @は、犬という集合は、必ず例外なく動物という集合に含まれるものであって、犬という集合は動物という全体集合の部分集合をなしている、という文脈を表現しています。ゆえに正しいわけです。

  ところが、Aでは、動物には犬もいますが、猫も猿も馬も魚も昆虫もいます。動物という集合は、必ずしも犬の集合とイコールではありません。犬であるのは、ほんのわずかな特殊な場合にすぎません。ゆえに、論理ゲイム=真偽判断としては、誤りとなるわけです。
  要するに、この文だけの判断で、文脈が成り立つものと、それだけでは成り立たないものとを弁別するのです。
  したがって、もっと長い文章や文脈のなかにAを置けば、正しい文として成り立つ特殊な場合も当然ありうるわけです。真偽判断はあくまで単一の文についてのゲイムです。

  では、次の文の真偽判断をしてください。

  @ 平行四辺形は長方形だ。
  A 長方形は平行四辺形だ。
  B 長方形は正方形である。
  C 正方形は長方形である。
  D 正方形は台形だ。
  E 平行四辺形は台形である。

  ヒントは集合論で考える、ということです。
  @=偽、A=真、B=偽、C=真、D=真、E真
がここでの正答です。
  四角形のうち、1組の対辺が平行なものを台形と呼び、2組の対辺とも平行なものを平行四辺形と呼び、平行四辺形のうち隣辺が直交するものを長方形と呼び、長方形のうち隣辺の長さが等しいものを正方形と呼びます。この説明の順序は、より大きな集合から小さな部分集合へと四角形の属性を増やしていく流れです。

  さて、定言判断・定言命題にはじつは、論理的には「もしAならば、Bとなる( if … then )」という仮定が含まれているということでした。この「もしAならば…」という文を、仮言判断・仮言命題と呼びます。こうして、いかなる断言にも仮定や想定が含まれていることがわかります。つまり、偉そうにどんなに強く断定・断言しても、文となる限りは、文脈的・意味的な正しさ、論理的連関を示さなければ、少しも説得や意思伝達の役目を果たさないことになります。
  したがって、単一の文だけで真偽判断する狭い次元を超え出て、文脈のなかで真偽や正誤の判断をしていかなければなりません。

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