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長野県伊那市高遠町
  高遠城下の寺院と神社はすべからく、谷間の街を挟んで高遠城の向かい側、北側の河岸段丘の高台に位置しています。
  城の直下の街で北から来る杖突街道と南に向かう秋葉街道が出会い、さらに西の伊那谷からやって来た権兵衛街道とも連絡します。城と寺社は向い合って谷間の街道を見おろす位置関係にあります。
  写真は、満光寺の鐘楼門。 【撮影は5月はじめ】
高台の寺院

  


▲鐘楼門の軒下から本堂を覗く

  そのことはさておいて、ここでは飯山城址を歩いて、戦国時代以降の飯山城の歴史と地理について思いを馳せてみます。今回は本丸と二の丸を中心にめぐってみます。


▲杖突街道から参道石段をのぼると鐘楼門

■高遠藩主内藤家の菩提寺■


▲鐘楼門の側面(境内西側から)

  高遠の街を兜山の麓まで東西に走るのは国道361号(杖突街道)。この道を高遠郵便局前で左折すると、親縁山満光寺の参道にぶつかります。
  参道は段丘斜面を北にのぼっていきます。地井さん山門をくぐると、右に小ぶりですが端正なお堂があります。その先に石段で、石段の上には重厚な造りの鐘楼門が屹立しています。

  満光寺の創建は、戦国後期の1573年(天正元年)で、浄土宗の高僧だった笈住ぎゅうおう上人が開山したのが始まりだそうです。当時、高遠城主は武田信玄の実弟、信廉で、武田家と上人とは親交が深く、寺の開創は武田家の招請によるものかもしれません。
  ところが、創建後の度重なる火災で、堂宇も記録も焼失したため、元禄以前の寺の歴史は不明なのだとか。


▲位牌堂(明治以降の建築)
▲極楽の松の説明板

  さて、鐘楼門の奥の境内には、樹高が低い黒松が枝を広げています。「極楽の松」と呼ばれています。武田信廉が自ら高遠城にあった黒松を境内に移植したと云えられています。典雅な枝振りなので、見るだけで極楽浄土にいる気分が味わえるようだという理由で、名前がつけられたのだとか。
  1691年(元禄年間)、内藤清長が高遠藩に入封すると、満光寺が内藤家の菩提寺に定められました。寺は高遠家の庇護を受けて、伊那郡内の浄土宗の中心的な存在となって寺運隆盛を迎えたそうです。
  その後1739年(元文年間)、寺の堂宇再建のさいには材木にシナノキを使い、伽藍配置を長野の善光寺に模したにしたことから、「伊那善光寺」と称され、伊那群で七堂伽藍が最もみごとな姿の寺院となったと伝えられています。


杖突街道から分かれて参道に入る

小ぶりの山門

標示のないお堂。宗旨が浄土宗なので阿弥陀堂か?

これまた小ぶりの本堂

唐破風向拝が優雅だ

枝を横に広げる極楽の松

典雅な造りの庫裏

  満光寺は1899年(明治32年)の大火で、鐘楼門(1745年建立)を残して堂宇を焼失してしまいました。
  鐘楼門といえば、禅宗風の造りが原型になっているようですが、この鐘楼門は江戸中期の建立で、雄大な入母屋屋根と一階二階の左右上下に並ぶ花頭窓がじつに美しい形状をもたらしています。

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