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長野県伊那市高遠町
  左は、高遠城と城下町を北から見おろした雄大な風景です。
  街の北側の高台斜面を東西に横切って流れる六道井用水。その畔を通っているのが六道井の遊歩道で、そこから南側を見渡した風景がこれです。
  高遠城がある高台の樹林のなかにある赤い屋根は、高遠閣です。背景に見える残雪の峻嶺は、南アルプス(赤石山脈)の仙丈ケ岳です。
景観抜群の高台の遊歩道


▲遊歩道からの城下町の眺め。大屋根は建福寺の本堂。


▲猪鹿沢の峡谷を超える六道井の水道橋

  JRバス高遠駅から鉾持神社に向かう小径を北に250メートルほど登ったところに、参道を東西に横切る用水路とその畔の小径があります。この用水路が六道原一番井で、小径は六道井遊歩道と呼ばれています。


▲六道井用水と遊歩道

  「井」とは井筋つまり灌漑用水路のことです。この用水路は江戸幕末期(1848~50年)に掘削されたもので、総延長は11キロメートル、藤沢川を3キロメートル以上も遡った栗巾という地区で取水しています。そこから尾根中腹を回り込みながら蓮華寺の上まで流れ下り、猪鹿沢の谷を水道橋で渡して西に向かう用水路です。
  この水路は、笠原地区の六道の堤の池まで続いています。また、鉾持神社の下で分流して、高遠市街地を抜けて三峰川に注ぎ出ます。
  用水の勾配はきわめて緩やかで、取水口から神社の下までほんの数メートルの高低差を利用して灌漑用水を流す高度な技術がみごとです。

■井筋掘削の苦難を伝える美しい風景■


▲段々畑の下に城下町が広がる

  高遠の街と農村の集落や耕作地は、深い渓谷を刻む三峰川水系の河岸段丘の上にあります。ということは、飲料水や農業用水の確保が大変に難しい土地に、高遠藩の城下町や農村が建設されたということを意味します。
  つまり、用水路(井筋)の掘削建設をおこなわなければ、城下街も藩経済の運営もできなかったのです。高遠藩では、17世紀半ばから三峰川とその支流の上流部から取水して、峻険で固い岩盤斜面を掘削し、街と農村に水路を建設してきました。苦難の歴史です。⇒参考サイト

  高遠藩の水利事業として進められたそういう井筋掘削の指導者として、柳沢弥左衛門(17世紀半ば)と伊東伝兵衛(18世紀半ば)の名が伝えられています。とくに伝兵衛は5つの用水路の建設で力を発揮し、井筋は「伝兵衛五井」と呼ばれています。


▲建福寺裏からの城下町の眺め

  私が訪ねた六道原一番井(六道井)は、高遠藩が手がけたもので、藤沢川流域の栗巾で取水してから2つの大きな尾根を回り込むような形の用水路です。2つの尾根のあいだに深い谷を刻む猪鹿沢を水道橋で越えるという高度な技術を駆使したものです。
  今では、この井筋の畔に舗装道路がつくられていて、高遠の街全体を見おろしながら歩く遊歩道にもなっています。この道は、高遠城がある兜山とほぼ同じ標高をたどっています。高遠城の背景には南アルプス仙丈ケ岳が控えています。
  したがって、高遠城址の全体を一望するためには最高の地理的環境にあるといえます。ことに春の桜の時季には、高遠城址に咲き誇るトカトオコヒガンの樹林全貌を巨大な一塊として――そして背後の残雪の仙丈ケ岳も――眺めることができる景勝地となります。
  しかも、遊歩道沿いににタカトオコヒガンの桜並木となっているところもあって、ことに「堅牢北神尊」が祀られた緑地には桜が密集していて、絶好の花見場所になります。そして、その近くからも高遠城址を見渡すことができるのです。

  さらに高遠城址から西に視線を転じると、中央アルプスの木曾駒ケ岳から空木岳にいたる秀峰群を見はるかすこともできます。桜花がが散った後の若葉の季節、緑が深まる夏の風景、晩秋の紅葉など、この遊歩道からの景観は雄大かつ秀麗です。


鉾持神社石段参道を横切って流れる用水路

山腹斜面に掘削された井筋

神社参道から遊歩道に続く小径

遊歩道脇の桜並木

用水路沿いの民家

斜面にある堅牢北神尊の緑地

緑地にはタカトオコヒガンの老木が並ぶ


▲六道井遊歩道(右端)と中央アルプスの遠景

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