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長野県飯山市飯山
藩主家の菩提寺  

  関ケ原合戦の翌年1601年、関長門守が長野の長沼から飯山に移封され、それとともに忠恩寺もこの地に移転してきました。それから三十数年後、忠恩寺は藩主家の菩提寺となり、その後、歴代藩主家と最も恩顧の深い寺となりました。
  江戸時代には、現在の愛宕通り沿いの寺町全体が忠恩寺の境内で、そこにある個々の寺は忠恩寺の塔頭支院だったそうです。藩主の菩提寺は、飯山城の真西の正面にあったのです。
  ところが、1868年の戊辰戦争で城下町飯山は、幕府派の浪士隊と官軍派の藩軍との戦闘のなかで起きた大火災の結果、町全体が灰燼に帰してしまいました。忠恩寺の本堂は丘の上の森のなかにあって焼失を免れたようです。しかしそのとき、寺町の寺院や街並みも焼失し、焼け跡から明治初期の復興が始まったので、寺町の構図もすっかりかわってしまったようです。


▲奈良沢、上倉方面に向かう道沿いの段丘登り口に忠恩寺がある

■数奇な寺の歴史■

  忠恩寺の創建は1559年(永禄年間)で、千曲川の河畔、長野市長沼の地に、長沼城主の島津淡路守の招請で貞誉秋応が開山したそうです。長沼は松川の千曲川への合流地の対岸(旧豊野町の南隣)にあります。松川は須坂市と小布施町との境界を流れています。名前のとおり、沼地が多いところだったようです。

  関ケ原での勝利の後、徳川家は覇権を固めるために全国の領主の配置換えを敢行しましたが、そのとき長沼領主だった関長門守の飯山への移封にともなって、寺も移転してきました。移転後は、飯山藩の歴代領主の手厚い庇護を受けることになりました。
  ことに忠恩寺を菩提寺とした松平家は寺領16石、本多家は供養米50俵を寄進したのだとか。藩主との恩顧が深い寺院ということで、飯山城の西側に広大な境内を与えられ、現在地から妙専寺にまでおよんでいたそうです。

  明治時代の飯山の復興は焼け野原から始まりました。城の西を通る谷街道(飯山街道)の道筋はほぼ以前のままだとしても、そのほかの街筋や街並みは大幅に組み換えられたようです。
  寺院や神社についても同様で、忠恩寺が「松寿山正覚院」という山号院号で再建されてきたのは、旧寺院の境内や堂宇のごく一部分が忠恩寺の寺号を引き継いだからでしょう。忠恩寺に属していた塔頭支院は、それぞれ現在の寺号で独立して再建されていったのでしょう。

  現在の本堂は1727年(享保年間)の火災で焼失後、1733年に再建されたものだそうです。豪雪地帯なので急勾配の高い寄棟屋根の正面には唐破風向拝が設けられています。外陣天井には、室内のどこから見ても竜と目が合うという八方睨みの竜が描かれています。境内裏手には、入母屋造りの地蔵堂があります。寺宝の黒本尊阿弥陀如来像は、本多廣孝が徳川家康から拝領した秘仏だとか。


段丘の上の境内に立つ山門と鐘楼

山門も脇にはケヤキの叢林がある

庫裏の前の土蔵

急勾配の屋根の本堂

本堂と直角をなして隣接する正覚院

正覚院の建物 庫裏と一体化している

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