◆御手祓い道をめぐる◆



▲参道石段を横切る矢印の道筋が御手祓い道の遺構。右手の叢林を抜けて御室社の方に回り込むと思われる

▲御手祓い道跡: 石畳の小径を降りてきてからこちらに回り込んで進む
写真中央上の石畳の径が、輪の方知恵推した御手祓い道の西端


▲御室社脇から十間廊の南脇を抜ける御手祓い道遺構(石畳)


▲十間廊と高御子殿跡: 御手祓い道は十間廊と高御子殿を回り込んで
下っていく


▲十間廊と東脇を流れ下る水眼の神水: 畔を往く御手祓い道跡
十間廊を回り高道を横断してから北西向きに曲がったという


▲大木の右脇を通り抜け、この先で左折して小径をのぼっていく



▲高道から南の斜面には大祝氏の家臣団の屋敷があったらしい
今でも品格と風格を備えた建物が維持されている


石段を横切る高道の下の御手祓い道跡

中央の細道が御手祓い道跡: このあと坂を上る

  前宮社務所の北脇を通る小径は、高道たかみちと呼ばれています。高道がある段丘の下の斜面で、参道石段を東西に横切ってケヤキの老巨樹の根元を往く細道の遺構が御手祓い道です。
  この道は、室町末期まで諏訪大社の祭事で神の使い役の少年が騎乗して通り、大祝氏居館神殿ごうどのを一回りして言祝ぎを受けたという神聖な小径だそうです。平穏と豊作を祈ったのでしょう。ただし、この少年は神事に後、神への生贄とされたとも伝わっています。マヤ、アステカ、インカ文明における聖なる祭りと生贄の風習と似ています。
  神聖な祭事を担う「選ばれた子ども」として育てるために、大祝をはじめとする神官たちは孤児や浮浪民の子どもを引き取って神に直接仕える子としてふさわしい態度や気品、知性を身につけさせるために、大切に育てたそうです。

  さて、この小径は、一番上の写真右手の叢林を抜けてから、南に曲がって御室社の方にのぼっていくと見られます。そして、そこから十間廊と高御子殿の上の小径を抜けて神願門跡方面に回り込み、高道を横切ってから東に曲がって一周りとなります。


石畳の道は神願門跡脇を抜けて高道に出る

  御手祓い道は高道を挟み込む形で神殿下の斜面に回り込んでいましたが、今では十間廊の上を通る石畳の小路は高道まで通じています。この辻の高道に面した位置にその昔、御門屋と呼ばれた居館の正門があったそうです。これは、後に戦国末期以降には神願門と呼ばれることになったとか。


その昔、ここに御門屋(神願門)があったという

◆小町屋の辻まで高道を歩く◆



▲子安社の境内: 右手鳥居脇の石畳の小径が高道


▲子安社と政所社に挟まれたこの地点から高道を歩き始める


▲横に寝るように伸びた梅の木の根元にある弓立石(矢立石)


▲道の右手(南側)が神願門跡で、ここか高道は下り坂になる


▲石垣上の高台は大祝氏家臣である高位の神官団の屋敷跡らしい
 断層崖は石垣で支えられて屋敷地となっている


▲小町屋の辻がこの先に見えてきた


▲小路の東側の風景: 風格がある古民家がある


▲小町屋の辻:前方の高台樹林が前宮の境内


▲辻の南側に並ぶ石塔群: 今はその下を暗渠の用水堰
(樋沢川)が流れる




          小町屋の辻から南にのぼっていく道が地蔵小路跡▶
          この道から前宮本殿まで行くことができる


石畳の小径が高道:左手(西側)斜面に政所社がある

  さて、子安社の鳥居前から高道たかみちを東に歩いて小町屋の辻をめざすことにします。
  この石畳の小径を挟んで反対側の尾根斜面には所政社(政所社)の石祠が祀られています。子安社政所社は別の機会に探訪します。

  左側の写真の奥(東)に向かって歩くと、社務所の前を通って神願門跡と駐車場の間に出ます。高道は、前宮の社殿群が位置する尾根丘陵の北端を横切るように往く道で、子安社からは少しのぼり、神願門跡を過ぎると丘から下ることになります。断層崖を斜めに横切って降りるのです。
  さて、小径どうしの四つ辻を過ぎると、社務所の手前(西脇)は庭園になっています。そこに、まるで倒れ込んだように横に伸びる梅の古木があって、その根元に弓立石(矢立石)と呼ばれる石塔が立っています。その昔、大祝館の庭にあって、弓の練習のさいに弓や矢が立てかけられたという説話が伝わっています。


段丘上の高道から大鳥居を見おろす

  社務所を過ぎた辺りでは、段丘上を往く高道から大鳥居を見おろすことになります。この道は段丘上を往くということで「高道」と名づけられたのでしょう。ここで道は、神願門跡と駐車場とのあいだを抜けて、小町屋集落に入ります。高道は前宮社殿群が位置する段丘から下る坂道になります。断層崖上の集落の屋敷地の縁は高低差のある石垣で支えられています。
  棚田のように屋敷地テラスが連なっていて、山城の曲輪群のような地形です。その昔、段丘上の敷地には、大祝氏の家臣である高位の神官団が居住していたのでしょう。


段丘を曲輪のように堅固な石垣で支えている

西方には前宮に向かって急坂になっている

  このように高低差すなわち上下に階差があるという集落の空間的な造りは、それによって身分や格式の上下関係・権力序列――つまり統治秩序――を視覚的に表現していたのでしょう。都市集落をこのような構造でつくること自体が、政治であり権力の行使だったということです。
  小町屋の辻まで歩いてから高道の来し方を振り返ると、社務所まで奥に行くほど高くなって街並みの立体感がきわだって見えます。まさに城郭です。遠くから見ても、前宮(大祝氏居館)を中心とするヒエラルヒーが明白なのです。


門前町としての小町屋集落、高道沿いの家並み

辻から南を望む: この先に干沢城跡と鎌倉道跡がある

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