◆子安社を訪ねる◆



▲所政社の祠の前(急斜面)から小屋宇社の境内を見おろす: 狭い境内で手水舎がひときわ目立つ

▲鳥居をくぐると右に手水舎、その奥に本殿がある


▲端正な造りの本殿: コシノヌナカワヒメが祀られている


▲高道の北脇に立つ医師の鳥居


石畳を敷いた高道。左手の斜面に所政社、右手に子安社

  子安社は、男女の出会いと縁結び、出産、子育てで霊験があるという神社です。一般には祭神はコノハナサクヤだそうですが、諏訪大社上社前宮の高道沿いにある子安社は、コシノヌナカワヒメを祀っています。神話ではコジヌナカワヒメは一番の美女だったそうです。
  祭神が一風変わってるい理由は、諏訪大神はタケミナカタであって、コシノヌナカワヒメはその生母だからです。諏訪大社4社にある子安社は、いずれもこの母神を祭神としているようです。諏訪社上社の神域では、タケミナカタを中心・頂点とする世界が構築されているのですね。
  この地方では、安産祈願のために底が抜けた柄杓を奉納すると、その柄杓から水が抜けるように安産ができるとされているそうです。
  子安社の斜向かいには所政社が置かれています。所政社は大祝の諏訪神いがいの神々への参詣で最上位にあるとか。してみれば、高道沿いのここは、格式が高い場所だということです。

所政社ところまっしゃ(政所社)を訪ねる◆



▲火焼山尾根の扇端の中腹に所政社(ところまっしゃ)の祠がある


▲斜度30°を越える急斜面に石祠がある。のぼるのが難しい。


▲安国寺史友会の説明には適合しない場所だ


  説明板には、諏訪大社の所領である藤沢郷が社殿を造営していたと書かれています。藤沢村は、杖突街道を南に5里ほど往った谷間にある集落です。高遠に向かう途中にあるところです。
  そうすると、高遠も諏訪大社上社の所領ですから、中世まで続いていた祭事は、おそらく高遠の集落群も巻き込んだ非常に大規模な催しだったでしょう。

  ところで社号として「トコロマツド」「トコロマツ」とはどういう意味なのでしょうか。社に祀られているからには神の名を意味するのでしょう。では、どういう神なのか。わからないことばかりです。
  郷土史家は、この祭事がが江戸時代にすたれてしまい、いろいろな事情が重なって「政所(まんどころ)」に混同されてしまったと指摘しています。しかし、そもそも当初の「トコロマツド」「トコロマツ」の意味を探り出さなければ、その指摘はさしたる意義がありません。


▲所政社の名残をとどめる石祠だが、社は本来違う場所にあったはず


左手、高道の南斜面に所政社がある

  尾根の下、高道の脇に安国寺史友会の立札(説明板)があります。
  いわく「古書には「所末戸社ところまつどしゃ」とも「政所社まんどころしゃ」とも書かれてあり 非常に盛大な祭りが春秋の二季に行われたといわれているが 江戸時代に至って全く廃れてしまった。かつては旧暦三月ひつじ日に稲の穂を積み そのうえに鹿皮を敷いて大祝おおほうりの座とし 假家をかまえて神事を行っており、大祝が定めで参詣する社十三ヶ所のうち第一とされてあるから この社の重んぜられたことがわかる。古くは上伊那の藤沢郷によって社殿が造営されていた。」
  ところが、こんな急斜面では刈谷を設けることも、祭事に人びとが参集することもできません。別の場所に所政社があったのです。しかも、屋代の名前すら混乱しています。「所松戸社」なのか「所政社」なのか、それとも「政所社」なのか。

  所政社での祭事は、格式がきわめて高く非常に盛大な祭りであったのであれば、開催地はこの尾根の下一帯――子安社から社務所(往時は大祝神殿)の西側にまでおよぶ――に広がっていたでしょう。あるいは、今は前宮公園となっている尾根の背にある草原だったか。
  私の勝手な想像では、尾根の上の草原で所政社の祭事がおこなわれたと思います。というのは、そこには往時鎌倉道が通じていたようなので、武張った催しにはふさわしいからです。そして。尾根下の子安社から社殿までの場所は大祝の居館があって、野外の催しのために充分な場所が確保できなかったと見られるからです。
  


尾根先端の斜面はあまりに急峻で、祭事には向かない

前の記事に戻る |