江戸時代の須原宿西端の街道と家並みの様子



現在の須原宿西端の姿(グーグルマップ航空写真)


◆須原宿の西端 江戸時代の中山道と家並みはこうだった◆


  一番上の絵地図は、『大桑村誌』上巻付録の家並み絵図(吉村義男氏所蔵)を参考に、現地の地形や痕跡を探索して、須原宿の西端について江戸時代の中山道や村道、家並み、桝形がどのように配置されていたかを想像復元したものです。

  絵地図の下に掲載したグーグルマップの航空写真は、現在の姿を示しています。上の絵地図と比較して、どのように違っているかを見てください。

  まず江戸時代の街道や宿場の仕組みを表す用語を説明しておきましょう。
桝形: 戦国時代の城郭・城砦の防御施設を模倣して、宿場の出入り口に石垣などを施して、直角に二回(クランク状に)曲がらないと通行できないようにした設備です。石垣で囲まれた部分が桝のように四角形になるので、桝形と呼ばれています。
  上の絵地図の桝形では、直角に曲がるのは1回だけですが、中山道のもう少し北側にも桝形石垣――曲り角度は鈍角だったらしい――があったので、2回曲がることになります。
多様な形状の桝形の例⇒妻籠宿 三留野宿 望月宿① 
宿場用水: 上流の河川や沢から水を宿場街に引いて、その水が表通りの中ほどを流れるように設けた用水路です。街道で運搬仕事に従事する牛馬の飲み水にしたり、工具や農具、店舗備品などを洗うための用水にしました。
  用水路の畔に樹木や芝草を植えて岸を補強することが多かったようです。
前庭の植栽: 幕府の道中奉行は、街道と宿場の景観を美化するために、各戸の街道に面した側に前庭植栽を施すように指示していました。前庭の幅は、宿場の道幅によって、3尺ないし1~2間ほどでした。
  もちろん、宿場が山間にあるため地形が険しくて宿場内の街道の幅が狭くなり、前庭を造ることができない場合には、この限りではありません。 こうして、江戸時代の街道や宿場には、旅人や住民の心を癒す美しい景観が提供されました。
作場道: 作場とは田畑などの耕作地のことです。作場道とは、宿場の農民が仕事場としての田畑に向かう小径のことです。幕府の高官や参覲旅の大名家が宿駅に停泊しているさいに、街道を通行できないので、住民が通る裏道・脇道としても利用されました。

  現在は県道265号が、定勝寺境内の北端の石垣下から宿場にまっすぐに通じています。しかし、江戸時代には寺の境内はもっと北に張り出していて、その下を寺小路と呼ばれた小径が通っていて、筋違いで宿場の街道に接続していました。
  しかも、中山道から宿場への入り口には両側に桝形の石垣が置かれていて、道幅が狭まっていました。ところが、明治政府の街道令にしたがって、桝形は撤去され、寺の境内が削られて、馬車や荷車などの車両の通行を円滑にする道筋や路面になりました。