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長野県塩尻市平沢
 
 
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   奈良井宿街あるき
家並みの形  

  木曾平沢は、北北東に向かって流れ下る奈良井川が削り出した谷間の河川敷に形成された集落です。この街の近辺で奈良井川は大きく左右に湾曲し、独特の谷間地形をつくり出しています。
  慶長3年(1598年)に奈良井川の左岸(西側)にあった道が右岸に移設されると、周辺の山岳や山間に生活していた人びとがこの道沿いに集住することで、集落が形成されていったようです。戦国末期から江戸初期にかけては、「天下統一」にともなう軍事・政治構造の変動に合わせて街道制度が整備され大きく変革されていく時期です。


▲谷間で大きく曲がる奈良井川。右岸が平沢の街。

  この道は東山道の一部をなす木曾路と呼ばれ、古代から中世にかけて京洛・近畿から東日本に連絡するものでした。徳川幕府は、1602年(慶長7年)にこの道を中仙道と名づけ、幕府直轄の街道・宿駅制度として整備していくことになりました。
⇒平沢の街の形と地理 / ⇒中山道の歴史と地理 / ⇒木曾路の歴史と地理

■湾曲した街道に沿った街並み■


▲中山道と川岸の道の分岐点

  平沢の街の入り口には、上ノ神社と呼ばれる祠群があります。ここから中山道を北に歩いてみましょう。
  この街では街道は大きく湾曲していて、町屋はこの道なりに沿って配置されています。各町屋の間口面は、同じ向き(平行)になっています。このような町屋の並び具合を「雁行」と呼びます。
  本来、雁行とは、渡りの飛行をする雁の群れが、V字型の編隊を組みながら各個体が同じ方向を向いて飛んでいる形のことを言います。

  街並みの形も独特ですが、各戸の敷地の内部の形・建物の配置もまた独特です。狭い間口と深い奥行きとなっている町割りによる敷地の内部では、街道側に店舗と住居を兼ねた主屋があって、その奥に木工工房や土蔵が配列されているのです。

  平沢では、街道の両側の町屋は敷地の奥側に後退していて、道路とのあいだにスペースがあります。
  このように家屋が街道から後退してスペースを設けているのは、江戸時代からの制度となっているのです。それは、火災のさいに通りの反対側への累焼をできるだけ防ぐためのものです。いわば火除け空間だったのです。
  寛延年間(1749年)の大火事のあとの街並みの再建にあたって、尾張藩は平沢の各戸に街道から3尺ずつ家屋を後退させました。
  現在では、道路の拡幅のために。その時代よりもさらに後退幅が広げられているのかもしれません。

  この雁行という家並みの形は、町家の正面がすべてほぼ南側を見ていて、家並みの湾曲が階段状のズレとして現れるので、整然としていながら奥行きを感じさせる視覚効果をもたらしているようです。
  また、敷地内の建物の配置やそれによってできる通路などの空間は独特の秩序の美しさと作業と運搬を能率とがほどよくバランスしています。


奈良井川畔の平沢。谷の彼方に鳥居峠が見える。

街の南端にある上ノ神社の祠群

道祖神や御岳社などの石碑が並ぶ

町屋の通りに面した壁面が同じ向きになっている

このような町屋の並びを「雁行」と呼ぶ

店舗の前にスペースを確保しているところもある

舞道沿いには漆芸品店が並ぶ

湾曲している街並みが良い感じ

出梁造りで出格子がある伝統的な町屋も多い

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