会田宿にはかつてあった寺院の跡(廃寺跡)が2つ残っています。ひとつは臨済宗の長安寺跡で、もうひとつは明治維新にともなう廃仏毀釈で破却された真言宗の普陀寺跡です。今回はこれらを探訪します。
今でも存在する広田寺と無量寺に加えてさらに2つの寺院があり、さらに御厨神明宮――これには別当寺の神宮寺が付随していた――があったということは、会田がどれほど豊かな街集落(都邑)だったかを物語っています。
◆昭和期までの会田宿の姿(痕跡)を探索する◆
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会田の街は昭和中期までは筑摩地方で最も繁栄した商店街だった
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▲会田交差点の東側の街並み

▲会田宿交差点から30メートル東に殿村にのぼる細道がある
これが長安寺への参道だった

▲現在では端正な石畳の小径になっているので、散策におススメ

▲石畳の小径はおよそ180メートルくらい続く

▲段丘下の高台に残る草地が長安寺の境内跡

▲草地の西端に並ぶ石塔と五輪塔がわずかに残る遺物か< |
◆長安寺跡を探る◆
太古から虚空蔵山頂の岩稜や尾根の岩壁を中心に始原的な山岳信仰の霊場がつくられていたと伝えられています。やがて9世紀には真言や天台の密教の修験霊場となっていったようです。
そのような古代からの密教霊場としての寺院や堂宇を起源として、1265年に地頭領主の海野系会田氏の祈願時として長安寺が開創されたと伝えられています。場所は現在の長安寺跡よりも標高の高い位置にあったかもしれません。
長安寺の本尊は虚空蔵菩薩だったということなので、虚空蔵山山頂岩稜下の窟屋神社は長安寺の前身だった密教寺院の奥ノ院本尊で本来は虚空蔵堂だったと推定できます。
鎌倉時代には、古代に開創され、その後衰微荒廃した密教寺院を再興再建しようとする禅僧たちの運動が起き、その第一波は臨済宗の学僧たちによって担われたようです。そういう仏教復興の動きを背景に、会田氏が開基となって鎌倉建長寺から蘭渓道隆(大覚禅師)を招いて開山したのが、臨済宗の禅刹長安寺と見られます。
ところで、臨済宗による寺院復興運動は禅修行拠点を建設する運動で、不況の対象はもっぱら武士層だったようで、江戸時代になっても檀家を持つことはなかった寺院も多かったと見られます。長安寺は臨済宗本部(妙心寺)直轄の寺院で、檀家を持たなかったそうです。相当に格式の高い、いわば修行や仏教研究のための機関だったようです。
仏教学者だった長安寺の住職は、昭和後期に臨済宗本部の方針で研究教育のため、転居して寺は長らく無住となってしまい、残っていた堂宇は2013年に解体されたそうです。今では、殿村集落の北東端の高台(段郭)に境内跡の草原が残っています。
長安寺としては会田に檀家を持たなかったので、住職の転出や廃寺は、地区住民の信仰や生活、葬祭にはほとんど何も影響がなかったそうです。しかし、文化財としての格式の高い有力寺院がなくなてしまったのは残念です。
昭和期には、会田宿交差点から北にのぼる舗装道路はなく、長安寺に参詣する急坂の石畳小径が広田寺まで行き着く経路でした。
石畳小径の終点にある石段の上の草地が寺院跡
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▲仲町の背後に迫る段丘崖上の小学校跡にのぼる急坂の細道

▲細道の中ほどで仲町通りを振り返って見おろす

▲小学校跡の高台から中町の家並みを見おろす

▲旧会田小学校の校舎跡と校庭との境界にあった石塔

▲この辺りに補陀寺の堂宇群があったと推定される

▲補陀寺跡の南側にあったという天満宮の跡はこの辺りか

▲補陀寺当たの西側、岩井堂沢渓谷の東岸の段丘崖

▲段丘地形は広田寺境内下まで続く。正面の崖の上の段丘面が、発掘調査がおこなわれた殿村遺跡。 |
◆補陀寺(普陀寺)跡を探る◆
旧会田小学校跡の石盤図に描かれた木造校舎
善光寺道会田宿の仲町通りの背後(北側)の段丘崖の上は旧会田小学校跡です。そこから長安寺跡や広田寺までが殿村と呼ばれる地区です。会田氏の城館とそれを取り巻く家臣団の屋敷街があったので「殿村」という地名がついたのでしょう。
戦国時代までは治水技術がなく、会田川の流水の破壊力を怖れて集落は殿村につくられていたようです。仲町通りの背後には高低差3メートル近くの段丘崖が迫っていて、同じような段丘崖が北に向かって広田寺までさらに3つ以上も連なっています。これは太古に会田川が虚空蔵山麓の斜面を流路を移しながら浸食して形成した河岸段丘です。
さて、旧会田小学校跡の段丘面の西端は岩井堂沢の谷間で、やはり河岸段丘が岩井堂まで続いています。小学校跡の東端には、往古、補陀寺という真言密教の寺院があったそうです。今は痕跡すら見つかりません。
補陀寺がその場所に建立されたのは室町末期ないし江戸時代初期にかけての時代だと推定できます。それよりも前には、虚空蔵山麓の無量寺よりも高い場所にあったか、虚空蔵山頂と立峠のあいだの谷間にあったと考えられます。
そのように推定する根拠は、岩井堂観音堂が補陀時の奥ノ院だとされているからです。寺の郷の補陀とは「補陀落」のことで、補陀落とは観世音菩薩が治める理想郷世界――阿弥陀如来が支配する浄土よりも下の階梯の世界――を意味します。したがって、補陀時とか補陀落寺の本尊は観世音菩薩ということになります。
飛鳥時代から平安時代にかけて虚空蔵山や立峠の南麓には始原的な山岳信仰の霊場が営まれていて、のちに真言または天台の密教修験霊場になったと見られます。虚空蔵山域には幕末までは、神仏習合の格式のもとでいくつかの有力な密教寺院を中心に宿坊や仏堂、神社からなる集落があったの推知できます。
そういう密教修験の霊場なかのひとつが補陀寺で、虚空蔵山の岩稜の麓にあったのではないでしょうか。
戦国末期家から江戸時代初期にかけて善光寺道が開拓され、会田宿が建設されていく段階で、補陀寺の里ノ院として会田宿の街並みの背後の丘に建立されたものと見られます。しかし、明治維新にともなう神仏分離や廃仏毀釈、山伏や御師の禁止によって寺は廃され、虚空蔵山麓の修験霊場も失われてしまいました。
この段丘面に校舎とプールがあったか
補陀寺の境内にのぼる山号があったらしい場所
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