会田御厨神明宮は創建年代が謎の神社です。飛鳥時代(7世紀末~8世紀はじめ)に創建されたという伝説、平安末期家から鎌倉初期にかけて創建されたという伝説、鎌倉末の創建という説などがあって、実際のところはまったくわかりません。
  比較的に近い場所としては約5キロメートル西方に明科潮神明宮、約15キロメートル北東に麻績神明宮があって、創建は平安末期から鎌倉初期と推定されているので、会田神明宮も同じ時期に創建されたものと見るのが無難な見方かもしれません。


◆平安末期に会田氏が勧請して領地を寄進したか◆


会田川の谷間を見おろす段丘崖上に鎮座する城郭のような構えの神明宮拝殿



▲神明宮がある段丘面の下の段丘にある集落


▲県道302号から神明宮への参道入り口に立つ大鳥居


▲参道の先に神楽殿の入母屋瓦葺き屋根が見える


▲拝殿前の段丘面広場から神楽殿を眺める


▲さらにひとつ上の段丘面に拝殿と幣拝殿がある
 幣拝殿があることから諏訪社が合祀されているようだ


▲拝殿の西側に並ぶ境内社は天満宮、八幡宮など


▲西脇から拝殿の造りを観察すると八幡宮/諏訪社系の様式か

▲拝殿奥の本殿は切妻造の神明社様式だ(修復工事中)


▲拝殿東翼には幣拝殿(片拝殿)風の建物(蚕神)が並ぶ


▲拝殿前から西脇にいくつも神社が合祀されている


▲境内東または奥の段丘面にはかつて神宮寺があったらしい

◆境内には多数の神社が合祀される◆


大鳥居の下にある集落の古民家長屋門


大正~昭和前期の建築と見られる養蚕向けの造り

  会田神明宮は会田集落の東端に位置しています。その場所はじつに微妙な位置で、平安末期から鎌倉初期にかけて、佐久・上田小県地方から海野氏一族が青木峠谷保福寺峠を越えて会田川隆起の盆地に進出し開拓した流れと、安曇野地方から仁科氏一族が明科を経て会田川を遡上して東進した流れが出会うところで、いわば勢力が拮抗する緩衝地帯です。
  海野系会田氏は所領の西側の辺境を伊勢神宮の御厨=御料地として寄進し、やがて鎌倉幕府からこの地の地頭領主として叙任されることで、明科方面からの仁科氏の勢力に対峙しようとしたのかもしれません。
  会田氏は会田盆地の統治者として自らの直轄領に加えて、伊勢神宮内宮に寄進して御料地とした御厨領も政治的・軍事的に支配し、それを仁科一族に対する緩衝地帯として利用したのです。
  江戸時代になって幕藩体制のもとでも、会田盆地の領地問題は複雑で幕府直轄領(天領)と松本藩領の境界(領地の帰属関係)は何度も変更され、おそらく御厨御料地の扱いも変動したようです。

  明治維新では神仏分離や廃仏毀釈によって伝統的な神仏習合の格式が乱暴に壊され、明治末には祠堂合祀令によって郷村にいくつもあった小さな神社や祠堂が御厨神明宮に強制的に合祀されたため、信仰が混淆して伊勢社内宮としての様式が失われてきたようです。

  そういう歴史的経過は、たとえば神明宮の大鳥居に形に見ることができます。大鳥居の左右両柱は平行なのですが、貫の上に扁額があったり、島木を屋根で覆ったりして、神明様式から外れた混淆様式になっています。入り口のところで、ここは神明宮なのか明神社なのかの区分が怪しくなっています。
  大鳥居の左右の柱が地面垂直で互いに平行であるという基本枠を残しながら、添え柱や島木の屋根、扁額などの装飾を施してしまったために、神明様式から折衷様式になってしまったようです。


この小堂は神宮寺に付属していたものか

  そうなってしまったのは、明治末期の祠堂合祀令によって、近隣集落にあった天満宮や諏訪社、八幡社などを合祀した結果、伊勢神宮としての格式にやや無頓着になってしまったせいでしょうか。また近隣農村の郷社などを定めるという明治政府による神社本来の格式を無視した政策が混濁に拍車をかけたのかもしれません。
  これは政府による国家神道思想の強制という政策の信仰・文化面における弊害のひとつです。
  さて、境内に入っていくと独特の神楽殿が迎えてくれます。その屋根は入母屋様式で、神明宮の神楽殿は単純な切妻屋根(または寄棟の茅葺屋根)という神明社の様式とは違っています。
  おなじような混淆は、段丘崖に石垣を施した壇上に置かれている拝殿にも見られます。非常に重厚で美しい入母屋造りですが、本来、この形状は諏訪大社あるいは八幡宮のいわゆる明神社の様式で、伊勢社=神明宮に適合した様式ではありません。
  しかし、現在修復工事中の本殿の屋根は切妻様式なので、これは古来からの神明様式を保持しているようです。
  神楽殿や拝殿の様式から判断すると、室町末期から江戸初期にかけて会田で大がかりに繰り広げられた水田開拓にさいして集落や民衆の結束・連帯をはかる祈りの場だった諏訪大社の影響が強いのではないでしょうか。

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