虚空蔵山は山頂の岩稜と岩壁が特徴的で、このような地形は古代から始原的な山岳信仰・修験の拠点として好まれました。
  虚空蔵山の岩稜と山麓には密教が体系化される以前からの山岳信仰の修行場があって、平安時代中期以降に真言や天台の密教霊場となったようです。無量寺またはその前身の寺院は、古くは真言密教の寺院で、虚空蔵山南麓から立峠南麓におよぶ密教修験の拠点のひとつだったと見られます。


◆虚空蔵山の修験霊場の衣鉢を継ぐ寺か◆


急勾配の参道をのぼった先の高台に境内を構える大惠山無量寺の堂宇群


  筑摩地方は安曇野の人びとからは東山と呼ばれた山岳で、古代から山岳信仰・密教修験の霊場が開かれていたそうです。その多くは9世紀に空海の指導の下で密教を体系化した真言宗の寺院となっていったようです。無量寺も会田とは別の場所で開創された真言密教の寺院でしたが、戦国時代に会田の虚空蔵南麓にの丘に再興されたと見られます。

▲山門の背後に見えるのは本道と善導・庫裏などの堂宇


▲山門には大惠山という山号か描かれた扁額が掲げられている


▲山門の向かって左側には仏堂か、重厚な堂宇がある


▲山門に向かって右側には禅堂庫裏と土蔵が並ぶ


▲楼門をくぐると大きな本堂が見えてくる


▲重厚な本堂が参詣者を迎えてくれる


▲本堂脇には、尾根を背に広壮な構えの禅堂庫裏が控える


▲山門を入って西脇に鐘楼が置かれている


▲長屋門を挟んで2室が連渇した仏堂か


▲背後の山腹から見える本堂と裏手と倉庫

◆山岳信仰・密教の霊場があったか◆


山門に向かう石段は最近改修されたらしい


新緑に取り巻かれた鐘楼

  伝説では、無量寺の前身の寺院は、819年に仁科氏が開基した真言密教の寺院だったのですが、やがて荒廃し戦国時代(1570年代)に仁科氏を継承した武田盛信が曹洞宗の寺院として再興したそうです。

  虚空蔵山頂の岩稜は、東西に伸びる巨大な背びれのような形をしています。往古には、岩稜に今ほど樹木が繁茂していなかったようで、岩壁や岩棚がむき出しになっていたようです。
  このような地形は、時代を遡るほど、ことのほか山岳信仰の修行場、霊場として好まれ、古代には始原的な山岳信仰や密教修験の拠点が設けられていたと見られています。
  山岳信仰や密教修験は、奈良時代に大和王権が東山道やその支線を建設したり、東大寺と大仏、さらに各地に国分寺を建立するさいに金や銅などの金属鉱脈の探索、仏像・仏具のための木材探索のために山岳修行者や密教修験僧の活動を支援したと考えられます。
  古代から昭和初期までは山間集落の人びとは、薪炭や食糧、生活用具の材料として山林を利用・伐採し、牛馬を放牧していたので、山岳には現在のように深い森林にはなっていなかったようです。見通しが効く尾根や安全な谷間を行き交う交通路には、人びとが頻繁に行き来していました。
  山間にはいたるところに、神仏習合の伝統のなかで山岳信仰や密教修験の山伏や修行僧が生活する堂宇や宿坊からなる集落があったそうです。その周囲には杣人や農民としての生活を営む半在家の修行者の集落もあったそうです。
  ところが、明治維新にともなう神仏分離や廃仏毀釈によって山間部の寺院の堂宇や宿坊は遺棄されたり破壊されたりしました。さらに山伏や宿坊の御師などの職分は禁止されたため、古代からの霊場拠点となっていた宿坊集落はなくなってしまいました。


軒下から本道正面を見上げる

  たとえば戸隠山は、天台宗の顕光寺が統括する密教修験の巨大な霊場でしたが、顕光寺奥ノ院の参道沿いに林立していた七堂伽藍は破却され、その支院でもあった宿坊街は、戸隠神社に帰属する宿坊として中社の集落に強制的に移設されました。
  こうして、顕光寺宝光院、中ノ院、奥ノ院の周囲に営まれていた天台密教の修験霊場としての大きな集落が消滅してしまったそうです。
  また諏訪湖畔にある諏訪大社4社それぞれには付随する別当寺としての神宮寺(天台宗と真言宗の2系統)があって、神仏習合の格式のもとで五重塔などの堂塔伽藍が密集し、神社の背後の山岳では山岳信仰・密教修験の霊場があったそうですが、これらも明治政府の政策によって強引に破却・遺棄され、現在では痕跡すら残っていません。

  信州の筑摩地方の山岳部・山間部は、古代からの山岳信仰や密教修験の拠点が多数あったと伝えられていますが、現在ではその痕跡はほとんど残されていません。とはいえ、往古、会田川河畔の会田からな中川までは虚空蔵山南麓の山岳信仰・密教修験の拠点集落があちこちにあって、岩井堂とか十二原などは山岳信仰・熊野信仰の結びつきの名残りを示す地名が伝えられています。
  会田から中川を経て青木村・塩田平までは、古代から東山道の支線とも結びついて「祈りの道」が連絡していたと見られます。大惠山無量寺は、江戸時代初期頃に曹洞宗の惨殺として再興されたそうですが、前身は真言密教の寺院だったと伝えられています。おそらく古代からの密教修験の霊場としての伝統を受け継いだ寺院だったのでしょう。

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