北国街道松代道 福島宿の絵地図

  上の絵地図は、幕末の頃の福島宿の町割りと街道筋を示すものです。明治初期の絵図をもとに修正を加えて復元した想像図です。絵地図から福島宿が南から上町、中町、横町の3つの街区から形成されていることがわかります。
  明治初期に街道の桝形は車両通行の阻害になるという理由で撤去されたので、この絵地図で宿場南端の桝形の位置は、私の付近の建物の配置などからの推定による復元です。この辺りは明治時代の耕作地化のうえに、昭和期に繰り返された千曲川堤防の構築、さらに屋島橋の架橋建設、高速道路へのアクセス交通路などの建設によって、遺構や跡地の推定すらままならなくなっています。
  歴史文化財への配慮がないのか、予算が取れないのか、県道レヴェルでの道路建設では埋蔵文化財・遺構の発掘調査はおこなわれなかったので、今となっては、遺構の探索すら不可能です。
  さて、町割り図を見ると、福島宿はきわめて整った宿場街の形をなしています。そして、この宿場が北越方面の大名の参覲旅で宿泊や休泊地となったであろうことが明白に見て取れます。街道と並行してつくられた脇道――街道沿いの街並みの裏手に通っている小径――があることで、それがわかります。参覲旅の藩主が宿場に停泊する場合、藩主は両端の桝形には番兵を配して戦陣や城郭と同じ防備を施すことが義務づけられていました。
  すると、原則として一般の旅人や宿場町の住民は街道を通行できなくなります。そんな場合に利用されるのが街道を並行して、宿場の街並みの裏手を迂回する裏道(脇道)なのです。佐渡の金山で採取した金を江戸日本橋の金座(造幣役後藤家)に運ぶ場合にも、同じような警戒態勢がとられました。上の絵地図では、東側の細道だけを「裏道」と表示しました。
  ところで、福島宿では街道が直角に曲がる箇所が少なくとも4つありましたが、そこに石垣や土塁で桝形が設けられていました。
⇒参考 長沼宿の桝形と街並み / 往古の街並みの面影

室町時代の福島の水系想像図

  上掲の福島付近の千曲川水系の古地理の想像図です。
  川田から綿内、福島、中島、相之島、小布施飯田、立ケ花辺りまでの千曲川東岸は、16世紀の半ば頃までは無数の沼沢が広がる湿地帯でした。今から40年ほど前までは、綿内の温湯から井上までの井上山山麓や、太郎山山麓には湿田湿地が続いていて、多くは蓮田となっていました。
  17世紀に始めに北国街道松代往還が開削される頃から、宿場街近隣から用水整備にともなう干拓、水田開拓が進み千曲川東岸の高台や自然堤防に人びとが集落を形成し始めたようです。想像図では、東岸の湿原沼沢地の広がりは、はかなり控えめに見ても最低限度これくらいだったであろうという推定にもとづいています。