往時の長沼宿の面影



  この写真は、2021年9月19日の信濃毎日新聞の日曜特集版「5万号記念特集号」、「過去との邂逅 未来への閃光」9ページから引用したものです。記事によれば、長野市の浦野良平さん所蔵・提供のモノクロ写真です。
  《1932(昭和7)年の長沼宿の面影》を伝える貴重な写真です。その下に現在の長沼宿上町のだいたい同じ場所を私が撮影した写真を添付します。比べてみてください。
  信毎の写真では、上町の中ほどから北に向かって街道と宿場を撮影したもののようです。写真の中央奥――家並みの背後――に見えるのは林光院の本堂の屋根でしょう。新聞記事の解説によれば「江戸時代の宿場町(長沼宿)の面影を残す水路、この写真が撮影されてから間もなく、道の脇に移されました」ということです。
  この水路は、宿場用水と呼ばれるもので、往時には宿場街の街道のほぼ中央に設けられていました。⇒参考記事
  写真から推測すると、道幅は6間ほどで、宿場用水とその脇の草地(堰壁)を合わせて2間、その両側の道がそれぞれ2間ということでしょうか。ひょっとすると、幕末までは家並みの道寄りに幅1間ほどの前庭植栽があって、用水脇にも柳か松、カエデなどの並木があったかもしれません。
  明治になると、主に荷車用でしょうが、車両の通行の邪魔になるということで、前庭や宿場用水は移設・撤去されてしまいました。
  写真に入っている辺りが宿場町の中心部で、本陣や問屋を営む有力家門などが並ぶ一角で、長屋門も見えます。土蔵もかなり重厚な造りになっています。それだけ長沼宿は繁栄していたということを物語っています。
  林光院の茅葺屋根は急勾配です。往時、長沼には真冬1メートル以上の積雪は珍しくなかったので、このくらいに急勾配の屋根でないと冬を建物は越せなかったのでしょう。もちろん、住民の家屋の茅葺屋根も急勾配です。
  この写真では、林光院前で東に曲がり西光寺や西厳寺に向かう鉤の手小路しかなく、西に曲がって長沼郵便局に行く道はありません。鉤の手小径の西には建物または石垣があって、ここに簡易な桝形を形成していたものと見られます。

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