◆前宮本殿とその周り◆



▲本殿への参道: 叢林のなかに本殿がある


▲本殿前から茅野市街と八ケ岳を望む


▲晩秋の陽を浴びる水眼(すいが)の清水


▲水眼の流れの冬の姿: 背後には二之柱とケヤキが並ぶ


▲本殿前のイヌシデの老巨木: 藤の大木に巻きつかれている


▲本殿(奥殿)の背後に立つ大ケヤキ


▲一之柱の西側の段丘平坦地には昔、阿弥陀堂があったという

  地形的に見ると諏訪大社上社前宮は、杖突峠に続く3筋の尾根の中央の尾根裾に位置しています。三叉の独鈷の真ん中の突起をなすような形の丘陵の上にあるのです。この丘陵は水眼すいがの沢と樋沢川が形成した扇状地でもあるのです。
  そして、二の鳥居から本殿に向かう小径は、小高い尾根丘陵の裾をのぼる道です。道の先に見える樹林のなかに本殿が祀られています。その樹林は緩やかな尾根の高台にあって、茅野市街と雄大な八ケ岳連峰を展望する位置にあります。⇒参考記事
  本殿の基盤は、はるか古代に尾根を削って均して造成したものでしょうか。本殿の背後は段丘崖になっています。古くは、本殿の背後は深い山林となっていたのでしょうが、今は畑や耕作地跡の草原となっています。

  本殿の前を東西に横切っている小径は、以前は、鎌倉道の遺構だと言われていました。ところが最近、発掘調査が進んで、鎌倉道の遺構は前宮の背後の斜面をのぼったところ――50メートルほど歩いた先――にあるとされるようになったようです。その遺構には、後で訪ねることにしましょう。<


前宮本殿の西側を流れる水眼の清水

本殿の西側の草地のなかで流れは池となっている

  さて、本殿の東側を流れ下るのは水眼すいがの清水(神水)です。この清水は社殿の下で何本かの流路にも分かれて、いずれも最後に宮川に注ぎ込みます。
  本殿の南側の草地に清水を貯めた小さな池があります。今でも前宮の祭事にさいしては、氏子代表(御頭役)はここで禊をして身を清めるそうです。

  ところで、大鳥居から参道をのぼってくると、前宮の境内にはケヤキの巨樹が目立ちます。それらは自生の樹々のようです。一方、サワラなどの針葉樹はおそらく古くから植林されてきたものと見られます。この辺りの原生の山林はケヤキを主とする雑木林だったのでしょう。針葉樹は神域の目印として人が植えたのだと見られます。
  今でも前宮の境内と参道の周囲には、樹齢300~600年ほどらしいケヤキの老巨樹が十数本がありますが、その多くは、この辺りがケヤキを含む混合林だった頃から神木として保護・保存されてきたものだと思われます。
  前宮本殿の一之柱と四之柱を結んだ線の西側には段丘上の平坦地があります。江戸時代初期に描かれた「諏訪大社古図」によると、そこには「大阿弥陀堂」と呼ばれる堂宇があったそうです。前宮も神仏習合の風習のなかにあって、神社と寺院とが融合した信仰の拠点だったということです。この阿弥陀堂は現在、古町屋地蔵小路沿いの小町屋公会堂の脇に移されています。

◆鎌倉道の遺構を探る◆



▲前宮から杖突峠や小町屋山の神社に向かう林道。鎌倉道遺構でもある。


▲林道から折れて北西に向かう鎌倉道跡


▲尾根裾に向かう鎌倉道遊歩道


▲鎌倉道から上社本殿を眺める

  T字路から下ってきた鎌倉道は、前宮二之柱前で右折して東に向かい、樋沢古墳を経て谷間を南東に進み、干沢城跡の南に回り込むそうです。そして、国号152号を跨いで盆地に下ってきて、中河原で宮川河畔にいたるようです。
  信州の鎌倉古道は山中を往く道だったので、ごく部分的にしか史料が残されていません。とはいえ、山中の官道開削の困難さから考えて、前の時代の官道遺構を利用したり、修復したりした可能性は高いでしょう。そう考えると、鎌倉古道は、古代の東山道に沿って杖突峠を越えて高遠・伊那に通じていたこのかもしれません。

  前宮の東脇から南にのぼっていく林道は、鎌倉道の遺構だそうです。鎌倉道は、鎌倉幕府が戦役のさいに武士である各地の御家人や地頭を鎌倉に招集したり、戦地に動員するための公道でした。
  前宮からこの林道を100メートルほどのぼるとT字路になっているところがあります。そこで北西に折れて尾根裾に進む小径が鎌倉道の遺構を復元した遊歩道です。最近始まった復元は、ごく狭い範囲にとどまっています。


二之柱脇を東に折れていく鎌倉道遺構

樋沢の谷間: 尾根の上に干沢城跡がある

  鎌倉時代、諏訪・茅野近辺の地頭領主たちは。この道を通って鎌倉殿に馳せ参じたと伝えられています。諏訪湖畔は各地に向かう鎌倉街道の結節地だったと見られています。往時の武士たちは諏訪湖の舟運も利用して鎌倉幕府の戦陣に向かったはずです。
  ここは鎌倉道の諏訪湖周辺での結節地となっていたようです。道のひとつはここから北に向かって岡谷に通じ、また別のひとつは東に向かって下諏訪方面からの道と合流し、八ケ岳山麓を甲府方面に連絡していたのではないかと思われます。岡谷に向かう道は、有賀からさらに辰野に出て伊那方面へと向かったようです。その道は小野方面にも通じ、古い官道に沿って牛首峠越えで木曾に達したかもしれません。さらに、前宮からは杖突峠に向かう古道遺構もあるので、高遠・伊那に向かっていた可能性もあります。
⇒前宮近隣の鎌倉道遊歩道のガイド

前の記事に戻る || (続きを見る)次の記事に進む |