街道としての中山道と宿駅の仕組み その3


木祖村藪原の貯木場 切り出されたヒノキやスギ、サワラ、さらに広葉樹などの木材が集積されている。

■江戸の都市建設と材木問屋、そして中山道■


木祖村藪原の山林(ヒノキの森林)への入り口▲

  17世紀はじめからほぼ2世紀の間、街道制度の整備とともに飛躍的な経済成長が達成されましたが、そのなかでも最たるものは江戸城と「天下の総城下町」としての江戸の都市建設にともなう物流と経済の膨張です。
  幕府は江戸城を「修築」しましたが、中世以来の江戸城を改修したというよりも、全く新しい縄張り構想と設計思想で巨大な江戸城を新たに築城したというべきでしょう。ひとまず江戸城を建設すると、幕府はその周囲の武家町や各藩邸の建設と寺社の建設を指導しました。
  やがて武士の人口がおよそ50万、一般住民がおよそ50万、総人口100万に達する、その当時としては世界最大級規模の都市が形成されていきました。ここでは、幕府が関与した城(外郭の街も含む)と武家地、藩邸(大名屋敷)、寺社の建設に用いられた木材の流通にかかわる中山道の事情に話題を絞ります。

  大規模な城郭と城下町の建設には、ものすごい量の木材や石材、土砂が必要になりますが、ここでは建築土木用材としての材木が焦点となります。
  山国信州は豊富な山林資源を持っていたので、江戸城建設とその後の城下町建設のために必要な高級木材――ヒノキ、サワラ、マキ、ヒバなど――の最も主要な供給地となりました。その信濃を経由する街道には、中山道のほかに北国街道、甲州街道、三州街道、伊那街道などがありました。そのなかでも中山道は木材輸送・流通の最大の幹線となりました。三州街道や伊那街道、北国街道は、――中山道だけの木材輸送では、江戸での需要量をまかないきれなかったので――これを補完する役割を果たしたようです。
  ことに17世紀前半は、日本海や太平洋沿海の廻船海運はまだ幼弱で、水運では利根川や天竜川などを利用する木材の筏流しがようやく開発されたところでした。江戸建設当初は、利根川は江戸湾に注いでいたため、信濃からの木材輸送の一大幹線となりました。
  とはいえ、木曾や伊那の山林から切り出された高級木材を塩尻峠や和田峠、碓氷峠を越えて利根川上流の上州まで運搬しなければなりません。

●木問屋の台頭●


▲長久保(長窪)宿の本陣石合

▲和田宿の本陣長井

  最大の木材生産地は木曾でした。そこは尾張藩の所領です。尾張藩は藩の財政収入を増大させるための重要な資源として、木曾の山林と木材を厳重に統制管理し、江戸開発にともなう大需要に応じて、木材輸送を請け負う商人たちに有利な値段で譲渡しました。
  幕府は、権力基盤となる中心都市として江戸建設を進め、それに必要な資源を調達するために、信州の諸藩に上質の山林木材の供給態勢をつくるように督励しました。
  これに積極的に応じたのが上田藩真田家や松本藩小笠原家でした。
  ことに真田家は当時、和田郷から依田・長窪一帯を領有していたので、いくつかの郷村の給人と呼ばれる有力者たち――藩が俸給を授けている郷士層で村長格――に中山道の問屋業務とは別途に特許状を発行し、木材の買い付けと輸送に関する通商特権を与えて、木材流通の仕組みを確立させ、専門に業務を担わせました。
  こうして生まれたのが木問屋で、長窪郷の石合家(長久保宿の石合新左衛門)、そして和田郷の長井家(和田宿の長井権助)や羽田家(羽田半兵衛)が専門の木問屋として成長することになりました。
  これら二家は宿場の本陣・問屋を担う家門に属する一族でしたが、高での木材輸送が飛躍的に活発化すると、一般貨客輸送とは別にそれ自体独立の専門業者(木問屋)となりました。彼らは丸太木材のほかに製剤した角材や板材(くれ)を買い付け運送しました。

  木問屋は、幕府から命令された継立て業務の負担を免れて利潤率がきわめて高い業務を専門に担ったため、巨富を蓄えることができました。そして、藩主から得た特権的地位と大きな収益を背景に、街道の伝馬や人足に高給を払って木材輸送のために雇い入れたことから、宿会問屋業務を妨害し、利害が対立することもありました。
  和田宿には、利害対立が大きな紛争となり訴訟にまで発展したという記録が残されているようです。
  とはいえ、江戸での大きな木材需要があったのはせいぜい元禄の頃までで、18世紀半ば以降は木材需要は低迷し、木問屋の収益性も大きく低下していったようです。しかも、その頃には、木材を筏組みして天竜川などに流して海路で江戸に輸送する仕組みが確立されたため、中山道の木問屋はさらに経営窮地に陥ったようです。
  その結果、木問屋は目減りした収益を補うために、本来は宿駅の問屋が担うべき一般貨客の輸送業務にも手を出すことになって、これはこれで大きな訴訟になったといいます。しかも、訴訟では折衷的な判断となり、決着はつかなかったようです。
  木問屋は、その特権的地位と引き換えに幕府や藩に税=賦課金を納めていたので、上級機関としてもその経済活動を抑制できなかったのでしょう。

  してみれば、街道に沿った輸送業務の経営を、幕府や藩との恩顧関係にもとづく家門による身分的特権と結びつけて委任する江戸時代の統治体制や身分秩序の限界が明らかになった事例です。街道の輸送と旅客サーヴィスを幕府の統治秩序の枠内に押し込めるような制度は、幕末には全面的な破綻に瀕していたようです。

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