街道としての中山道と宿駅の仕組み その2


奈良井宿の下町 右端の石垣は桝形の一部分 : 塩尻・贄川方面からの宿駅への入り口はここだった。

■幕藩体制と街道制度■

  江戸時代の日本列島は、幕府が覇権を握っていたものの、60以上――山城や信濃、美濃など――の国に分けられていて、しかも政治的・軍事的には200以上もの領主が統治する藩(領国)に分割されていました。各藩は、幕府の統制を受けながらも、独自の政府と軍、税法や刑法を備えて個別に領国を統治していました。
  各藩は半ば自立的な政治的・軍事的単位となっていたのです。
  江戸幕府というのも徳川家を盟主とする領主連合が組織した権力で、全国的な統治はこの連合の有力領主たちを閣老(老中)会議に抜擢し彼らが政策立案と執行を担う形で将軍を補佐するものとなっていました。このような権力中枢の指揮下で、徳川派連合の有力諸侯を京都所司代や大阪城代、長崎奉行、若年寄などの要職に配置して、権力序列が組織されていました。


馬籠宿の陣馬付近。右の小径が中山道。街道を取り巻く環境は山野や農村が圧倒的で、そのなかで宿駅だけがいくらか都市集落的な場面だった。

  幕府は、場合によって諸侯の移封・転封あるいは統治能力失った藩の改易をおこなうほどの覇権を保有していたので、幕藩体制は近代初期ヨーロッパの絶対王政に比類することができるでしょう。
  とはいえ、幕藩体制は統一的で中央集権的な国民国家をなすにはいたってません。幕府が軍事的権力や立法権力、財政=課税権力を独占的に掌握することはかなわず、これらの権力は依然として諸藩に分有・分割されている状況にありました。
  このような政治的・軍事的に分立した諸藩領主を徳川派同盟の覇権のもとに統合する制度が、三代将軍家光の治世で確立された武家諸法度にもとづく参覲交代、あるいは道路や河川・海岸治水などインフラ建設工事を諸藩に請け負わせる仕組みでした。
  街道制度は、徳川幕府の威令や権威を各地に伝達する装置でもありましたが、同時に諸侯を参覲交代やインフラ建設に動員し、その軍事力と財政能力を抑制する仕組みでもあったのです。そういう文脈からして、開設当初、中山道を含めた五街道の仕組みと機能は、主に諸侯の参覲行軍のために準備されていて、物流や経済活動の急速な成長、さらには商人など一般民衆の旅行の普及活発化を想定したものではなかったようです。
  ところが、徳川幕府による安定した平和秩序が確立されると、商業流通は急速に成長し、各地の農業や手工業での特産物生産も進展して、これもまた商品流通をますます膨張させました。幕府や各藩の支配階級である武士層の財政収入もそういう経済活動や流通への課税賦課に依拠するものである限り、それに対応せざるをえません。
  物流の量からいえば海運や内陸水運が圧倒的でしたが、内陸交通手段としての街道・宿駅の拡充整備も課題となりました。中山道が贄川から牛首峠を越えて諏訪湖畔をめざす険路難所続きの経路から、塩尻峠を越える経路に変更されたことや、和田宿街場の相次ぐ拡張なども、そういう動きの一環でした。

■参覲交代と街道制度■

  街道と宿駅は、上記の事情から第一義的には幕府の権威を伝達する政治的制度ですが、他方で諸藩の領主とその軍事力を幕府の威令に服させる制度でもありました。つまり、幕府の公用で旅する役人や参覲道中の大名一行、あるいは朝廷の使者や公家に宿泊・休養のサーヴィスを提供することです。
  ここでは、参覲交代のさいの街道と宿駅の役割や位置づけについて見てみましょう。

■参覲行列の人員規模に関する指定■
藩の規模(石高) 騎馬 足軽 仲間人足
20万石以上 15〜20騎 120〜130  250〜300
15万石以上 10騎 80 145
1万石以上 3〜4騎 20 30

  参覲交代は武家諸法度にもとづいて、各藩の領主に幕府への臣従誓約を公式に表現する制度でした。藩主は妻子を江戸に住まわせ、江戸と領国にそれぞれ1年間滞在したのちに帰国あるいは上府することを義務づけられました。その間の藩主旅行は、戦国時代の戦役を模倣した軽武装の家臣・従者を引き連れての行軍(軍事パレイド)でした。
  各藩の石高(財政収入の規模)や格式に応じて、藩主に随行する家臣・従者の人数や弓・鉄砲・槍などの武装の方式と人員数は幕府によって厳格かつ事細かに指定されていました。換言すれば、「これだけの軍備と遂行人員を用意しなさい」と命じられているわけです。
  参覲行列は戦時行軍に準じるものなので、騎兵や足軽のほかに、長槍隊を先頭にして鉄砲隊、弓隊、徒士隊が続き、さらに茶道具、医師・薬箱、小姓、祐筆などの側衆、用馬などが随行しました。そして、原則として家老が藩主に寄り添いました。場合によっては兵員全体を指揮する番頭ばんがしら(近衛隊長)や物頭ものがしら(歩兵隊長)がともないました。


▲長野市松代町の真田祭りでの大名行列

  19世紀はじめ頃には、各藩が行列の規模や見栄えを競ったので、尾張藩や加賀藩などは3000名から5000名もの大行列を編成したといわれています。けれども、その結果、急速な経済成長にともなうインフレイションが進行するなかで藩の財政運営が商品経済に包摂され、しかも参覲に莫大な出費を続けたため、各藩の財政は逼迫することになりました。
  街道と参覲が幕藩体制の権威を高め、その結果として幕藩体制の危機をもたらすことになったわけです。

  ところで、参覲行軍の時季としては、外様大名が旧暦4月、譜代大名が6月を原則的な交代――帰国ないし上府――の目途としていたので、江戸から遠い藩は2か月ほどの旅程でしたから、初春から秋まで、主要な街道では必ずどこかの藩が複数どこかを行軍していたものと見られます。軽武装の軍事パレイドがおこなわれている街道は、かなり宇野程度に治安が保たれていたはずです。
  そのため、商用とか有名な神社仏閣への参拝をおこなう講で旅する商人や一般民衆は、この公共財とも言える「街道の平和」を享受することができていたのです。

■軍事装置としての宿駅■

  ところで、武家諸法度でも参覲行軍は、藩の軍事司令官としての領主の武将としての嗜みを求めていましたから、行軍中はもとより宿駅での宿泊停留にさいしても、野戦での陣営あるいは居城の防備に準じた警戒態勢を敷くことが求められました。
  宿駅の本陣には藩主が宿泊し、その周囲を宿直の警護兵が警備し、家老などの重臣たちは脇本陣や格式の高い旅籠に泊まることになりました。そのため、本陣や脇本陣などには、槍や鉄砲、弓などを補完する武器庫や藩主の用馬や騎兵用の馬を世話する厩舎が設けられていました。街道と宿駅の制度は幕府の軍事装置でもあったのです。
  ところで藩主や重臣たちには、随行する従者たちが料理して食事を供する場合が多かったようで、彼らを除いた随行員たちは、自前で用意した限られた手持ち資金で江戸との往復の旅費をまかなわなければならないので、簡便な炊事用具・什器などを携行して自ら食事をつくる場合が多かったようです。いずれにせよ、調理用具も運なければならないので、旅の荷物の量もかなりのものになりました。


▲石垣でつくられた本格的な桝形(佐久市田口龍岡城の桝形)。街道から城下町への入り口に設けられていたもの。

  各藩は宿泊する宿場町で、戦時行軍時と同様の臨戦・警備を敷くことになりますが、そのさい宿駅の防御施設としての桝形が大きな意味をもつことになりました。つまり、大名が逗留する宿場町の夜間は、桝形を防御障壁として兵員を配置して人の出入りを監視・警戒・制限し、街道場も夜間の通行が原則として禁じられました。
  そこで、一般の旅客や宿場の住民たちが夜間に街中を用事で動いたり、街に出入りしたりする場合には、宿場の裏道――脇道となっている小径や細い小路――を通行することになりました。藩の警戒態勢は多分に名目的なものだったので、裏道の監視まではしませんでした。
  したがって、商用旅行する商人や寺社詣り講中の一般民衆は、宿駅での宿泊りにさいしては、大名が宿泊する日程や場所を避けることになります。
  そういう混乱を避けるためにも、大人数の参覲行列の受け入れ態勢を準備するために、各藩は――天候にも左右されるものの――事細かな旅程予定を組んで、事前に各宿駅に通告しました。これを「先触れ」と呼びました。先触れがなければ、宿駅では数百人から数千人の人員の宿履き場所の割り振りや食糧準備がかなわなかったでしょう。
  また問屋としては、そういう大行列にともなう荷物の輸送手配と継立てを采配できないということになります。
  幕末の皇女和宮の江戸降嫁にさいしては、京都からの随行員だけで3万人――江戸からの迎え要員は2万だったとか――ともいわれていたので、街道の石畳舗装や建物の補修や修築などを含めて、事前の準備に数か月から1年以上もかかり、いざ本番でも1つの宿場の通過に1月以上も要し、そのうえ自らの宿場の前後3、4つの宿場に宿泊・休憩場所を割り当て割り振ってようやくしのいだそうです。
  この大行列の第一陣がすでに江戸に到着した頃、和宮一行はようやく琵琶湖に差しかかったとか言われています。足かけ2年におよぶ行列道中だったのです。

  住民人口が1000あれば、ひとかどの有力な宿駅集落と見られた時代に、数万の旅客と荷物を受け入れるというのは空前絶後の大事業だったでしょう。

■輸送装置としての宿駅の経済■

  さて、各宿駅の問屋は、人馬を手配して旅客や貨物・書簡などの駅逓継立てをおこなう業務を担っていました。駅逓継立てというのは、前尾の宿駅の問屋から受け取った貨客を次の宿駅まで送り届ける業務のことです。
  輸送する旅客や荷物のうち、幕府からの指示命令によるものについては、宿駅と問屋は無料で輸送サーヴィスを提供しなければなりませんでした。これはつまり、サーヴィス給付という形での幕府への一種の納税でした。

  駅逓継立ての主な形態には、@「御朱印状」によるもの、A「御証文」によるもの、B御定賃銭によるもの、C相対賃銭によるものがありました。
  御朱印状とは、幕府が発給した将軍の朱印が押された書状であって、無償で宿駅に人馬の輸送継立てを命じる業務命令書でした。これを利用することができるのは、皇室や公家、幕府の朝廷への使者、伊勢神宮代参、大阪城代や京都所司代を拝命した大名ばどでした。そのなかには、宇治御茶壷道中が例幣使がいて、彼らは幕府や朝廷の威光を笠に着て、各宿場でただで贅沢三昧や寄付を要求して、民衆にひどく嫌われました。
  また御証文とは、老中、若年寄など幕府の高官が発給する書状で、幕府の公用を務める役人や荷物の輸送を命じるものだった。以上の2つが、幕府から宿駅に無償で貨客の運搬継立てを要求するものだった。
  さらに御定賃銭とは、幕府が設定した料金で幕府公用の人員を輸送するもので、経済発展にともなうインフレイションのために宿駅側が赤字になる場合が多かったようです。ただし、幕府は各宿駅の余計な負担や混乱を防ぐためにあらかじめ先触れの書状を発行しました。

  以上の3つの業務形態は、宿駅の本陣と問屋が責任をもって費用を引き受けておこなう輸送業務で、宿駅の伝馬や人員で担いきれない場合には、助郷として指定されていた近隣の集落・村落の住民を動員することができました。本陣と問屋は自らの出費で、助郷から支援に来た人びとに何がしかの駄賃や食事を提供しなければなりませんでした。
  しかし、たいていの場合、支給される駄賃や食事では割に合わなかったため、手伝いを渋る郷村が多く、なかには助郷に指定された村から移住してしまう者が続出することもあったようです。
  とりわけ19世紀になると、宿駅は大きな赤字借財を負うことになったため、大規模な継立てでは事後に幕府が補助金を支給するようになりました。が、宿駅の負債は増大していき、街道と宿駅の制度は機能の不全が目立ってきたようです。

  以上に対して、相対賃銭はそのときどきの相場料金で、参覲大名や一般旅行者が問屋場に申し込んで貨客の輸送継立てを依頼するものです。これは、経済の成長やインフレイションとともに料金が変動していったようです。しかし、無償の輸送サーヴィスや固定料金のサーヴィスによる財政負担の割合が圧倒的に大きかったため、宿駅の財政はどんどん逼迫していくことになりました。
  とはいえ、商人や庶民は、遠距離輸送システムとして低いコストで街道と宿駅を利用することができ、それは経済と文化の発展に大いに貢献しました。

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