
▲旧青柳宿の集落は山懐にあって、尾根丘に囲まれている

▲集落の入り口に窪地があって、そこからのぼり急斜面が続く

▲昭和中期の造りの長屋門の前を往く旧街道

▲屋敷地の街道沿いに幕末からの前庭植栽が施されている

▲家並みの家屋のうち半分以上が無住になっているようだ

▲昭和中期まで養蚕が盛んだったことがわかる家屋の造り

▲昭和期よりも古い建物はほとんどないようだ

▲青柳宿本陣・問屋の主屋だけは古い造りが保たれている

▲青柳城館跡の下で北向きに通る旧街道沿いの家並み

▲道はここでまた直角に曲がって西向きになる
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◆石垣で支えられた階段状の町割り◆

JR坂北駅前から青柳にのぼっていく旧街道

階段状の石垣で覆われた町割りと用水路
急傾斜地に家並みが建設されたので、階段状の敷地割りと宿場用水は石垣・石組で覆われている。建設された年代は不明だが、高度な構築技術がうかがえる。
青柳氏の一族は、鎌倉時代前期から数百年の間、麻績郷の統治と開拓を担っていたようです。やがて室町時代には麻績川を南に越えて、虚空蔵山から四阿山系を東の要害とし、富蔵山系を西の障壁とし、麻績川を北限とする盆地の農耕地と村落の開拓を指導して、やがてこの一帯を統治した有力領主だったと見られています。これだけの地帯を開墾開拓するには大変な長期間を要したはずなので、室町中期から戦国時代までかかったと見られます。
その開拓がようやく完成に近づいたころに戦国の世が始まり、青柳氏は山城砦によって防衛しなければならない状況に直面して、城山から青柳におよぶ城砦群を設け、青柳集落を軍道としての善光寺道の兵站拠点としたようです。それは1550~1580年頃で、しかし青柳村を交通の要衝にしたのは、没落への予兆となったようです。筑摩地方と善光寺道は軍略の要衝だったため、武田と上杉が対峙して勢力を争う場裡となってしまいました。青柳氏はそのとき武田家に臣従したものの、やがて武田家も滅び、その後、青柳家も松本城主によって滅ぼされます。
松本藩としては交通・交易と軍略の要衝としての青柳をどうしても手に入れたかったのでしょう。絶好の地を領地としていたのが、青柳家にとっては風雲だったようです。
江戸幕府の指針を受けた松本藩によって青柳宿が善光寺道の宿駅として建設整備されていくのは、だいたい1607~1917年頃と見られます。
青柳集落は、背後の城山を軸とする尾根によって南~東~北をめぐるように誂えたように取り囲まれています。要害に守られていると言えますが、西側だけが開けた袋小路になっているよようにも見えます。
さて、西条集落から東条川を越えると刈谷沢と中村の集落を抜けて旧街道はしだいに東に方向を転じ、山腹に向かってのぼっていきます。現在の坂北駅前から青柳宿の本陣問屋辺りまで、およそ25メートル以上の標高差をのぼることになります。
本陣問屋から130メートルほど急な坂道を歩いたところで、旧街道は120°位の角度でに曲がり北向きになり、さらにおよそ120メートルほど往くと、また直角に曲がって西向きに進みます。戦国時代まで山裾の領主館に下に形成した街集落を街道宿駅にしたために、コの字型の道筋と街並みになったということです。
旧街道はそこから緩やかに曲がって北向きになって、東西に延びる低い岩尾根を横切ることになります。
 総二階で開口部が大きい家の造りは養蚕向け
善光寺道の前身となっていた古道は、この岩尾根を上り下りして麻績川を見下ろす谷間を見おろす尾根裾に向かっていました。領主の青柳氏は1580年にこの岩尾根の高低差7メートル近くの崖を開削し、2メートル近くの高低差に切通して上り下りしやすい道にしたと伝えられています。
その後、幕藩体制下でも何度か――享保期、明和期、天保期の3次にわたる――切通し整備がおこなわれ、現在のように尾根の反対側との高低差がなくなる路盤となったようです。

本陣問屋の屋根は豪雪に備えた造りに見える
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