
▲家臣団屋敷街跡から青柳集落を見おろす

▲居館・屋敷街跡の耕作地の下に旧青柳宿の家並みがある

▲高台石垣の下から鐘楼門と本堂の遺構を見上げる

▲鐘楼門は数十年前に補修した跡があるが、朽ち始めている

▲本堂跡の脇から鐘楼門(山門)を見ると、屋根が崩れている

▲外観はどうにか持ちこたえている本堂の遺構
 ▲標柱は、明治期に寺院が廃されて学校となったことを告げる |
◆居館跡に残る禅刹の遺構◆
筑北村や麻績村の古老によると、先祖から伝え聞いている歴史として、麻績川や東条川はときおり大規模に氾濫して集落に襲いかかってきたことがあったそうです。
中世にこの一帯を開拓し統治した青柳氏あるいはその先祖が、麻績を手始めに麻績川(東条川)水系の谷間の山麓の谷間を次々に開拓して所領としていった背景には、そういう水害への対策があったのかもしれません。
青柳氏の一族は、鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて西条や刈谷沢、中村、青柳など四阿山系の山裾の谷間を何か所も開拓し集落を建設し、その背後に城館や城砦を築いたものと見られます。
青柳集落の背後の丘は南北300メートル、東西300メートルほどの緩やかな斜面の山麓台地となっていて、その東側の山裾側が領主の居館跡と家臣団の集落跡だそうです。
室町中期までは、この広大な丘台地に青柳氏の居館・城下町と農民集落、そして水田などの耕作地が広がっていたものと推定できます。
ところが、室町後期から戦国時代になると、のちに宿場街が形成されることになる青柳沢川(堂の沢)沿いの谷間の斜面に水田が開拓され、農民の居住地も拡大していったのではないかと見られます。
筑摩地方で領主たちの間の軍事的衝突が目立ってくるとともに、丘台地の上の方の領主居館・家臣団屋敷街と下の方の農民集落との空間的分離が明白になっていったようです。
 総二階で開口部が大きい家の造りは養蚕向け
居館跡の高台には現在、清長寺という禅刹の遺構(廃墟)が残っています。この寺院は、青柳家最後の領主が父の菩提を弔うために、もともとは居館の250メートルくらい北方(里坊稲荷社の近辺)に建立したものと伝えられています。
やがて、青柳家を滅ぼした松本城主小笠原氏が現在地(居館跡)に清長寺を現在地に移設したそうです。
禅寺の遺構は、鐘楼門(山門)、本堂、庫裏、土蔵などですが、今ではすっかり荒廃して屋根が部分的に崩落しています。全体が倒壊するのは時間の問題です。
清長寺は、青柳集落の南側の山腹に位置する碩水寺という大規模な禅刹の末寺として開基創建されたと伝えられています。碩水寺がある尾根には古代に真言密教の寺院霊場が開かれていて、鎌倉時代から室町時代にjかけて衰微荒廃したのちに禅僧たちによって復興再建されたと伝えられています。
してみると、室町前期頃までは、碩水寺が見おろす西側の谷間(その麓は中村集落)に青柳氏の所領の中心集落や統治の拠点(城館)があったのかもしれません。領主たちの間の勢力争い・武力闘争が熾烈化するのにともなって青柳が拠点となっていったのかもしれません。
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