■密教霊場の街から宿場街へ■

街の東端を流れる保福寺川

祭礼用の舞台(山車)を収蔵する蔵
保福寺峠近隣の山岳には平安時代に真言密教の霊場としての寺院が創建されていたと伝えられています。永安山保福寺は、その系譜に属するの寺院ではないかと推定されます。
神仏習合の格式のもとで密教霊場は、有力な寺院と神社は一体化していて一帯の山間部のいたるところに修行の拠点として堂塔伽藍や社殿が設けられていました。それらの周囲には山伏や修験僧が営む宿坊が数多くあって、都邑集落(宗教都市)を形成したものと見られます。明治維新で山伏や修験僧あるいは半在家僧などの職分が禁止されたため、そういう都邑集落は消滅してしまいました。
保福寺の集落はそのような経緯で形成された街で、江戸時代にはもっぱら松本藩が利用する街道宿場街として整備・制度化されたものと見られます。ただし、現在の宿場街よりもはるかに広い範囲にいくつもの集落が散在していたようです。保福寺峠の周囲や西隣の殿野入には堂宇の周囲に宿坊群が集まった集落があったのではないでしょうか。

薬医門の正面の姿

永田門の下から街道を眺める
さて、保福寺橋から寺前橋までの旧街道の道のりはおよそ400メートル。これが、かつての宿場街の街並みの長さということになります。
旧宿場街を通る県道181号の道幅は、2車線の広いところで約7メートル余り、1車線の狭いところで4メートル弱です。松本藩が開削・建設した善光寺街道では、宿場街での道幅は、標準で4間(約7.2メートル)ということになっていたいたということなので、保福寺宿でもだいたい同じ規格が適用されたようです。もちろん、地形がそれを許せば、という条件ですが。
宿場と宿場の間での道幅は、平坦地でだいたい1間(1.8メートル)、険しい山中では「わずか2尺もあればまし」という場合も珍しくありませんでした。
宿場街では通常、4間幅の街道の中央部には宿場用水――畔縁を入れて幅約1間弱――が流れていて、街道の両端(屋敷の前)には低木を植栽した前庭が設けられていたようです。下町バス停辺りから公民館までは、そういう風景が続いていました。人馬が通行できる道は宿場用水の両側に分かれていて、それぞれ1間ほどの路面だったと見られます。【⇒参考記事】
繁栄した宿場街では、街道は緑地や植栽に取り巻かれた、ずいぶん美しい景観が保たれていたそうです。
現在町に残る古民家は瓦葺きですが、明治の大火の後に再建されたものだそうです。それ以前、ほとんどの町家の屋根は茅葺きだったようです。本棟造りの広壮な家屋は、杉板杮葺きだったかもしれません。
ところで、保福寺町公民館の前の街道は、幕末まではクランク状の(直角に2回曲がる)鉤の手道になっていました。石垣で囲まれた桝形になっていたのです。明治16年に新街道令にもとづいて、桝形を撤去して馬車や荷車が通れ酢ように拡幅して曲り角を緩やかにしたました。現在は、比較的に滑らかな曲り道になっています。
幕藩体制下での街道宿駅制度では、一般原則として、宿場街の端の桝形の外側に隣接するように口留番所や穀物番所が置かれていました。保福寺宿でも、寺前橋の南側の段丘上に口留番所が設置されていました。
松本藩が統治した宿場街では、本陣・問屋を務めた庄屋――戦国時代には武士で帰農して富裕な郷士になっていた――が口留番所役人を兼務する場合が多かったようです。この宿場では小澤家が代々務めたそうです。

宿場の中心部の土蔵をともなう広壮な屋敷

本陣跡の主穀は「カメノヤ別館」となった
明治以降、山間の宿場街は工業化を中心とする経済成長から取り残されて農村化していきました。
とはいえ、もともと物流の要衝で宿場街は情報や文化の集積地でしたから、幕末から養蚕が盛んになり、鍬の品種改良や養蚕技術の改善が盛んにおこなわれ、生糸は日本の輸出産業の中軸となり、それなりに富が集積したようです。ただし、世界市場では生糸の取引価格は変動が激しく、養蚕(繭取引)は景気の変動に弄ばれやすい産業でした。
ともあれ、保福寺町に残る広壮な古い瓦葺き主屋や土蔵などを見ると、昭和期までは概して農村部の豊かな街集落をなしていたように見えます。
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