筑摩郡刈谷原村は、古代の東山道の幹線または支線が経由していた場所だそうです。保福寺峠を越えて青木村、上田方面を経て上野(群馬)に向かう官道があったと伝えられています。
  ただし、その頃の刈谷原の集落は、江戸時代の刈谷原宿と場別の場所にあって、宿場の北側の谷を降りた辺り、洞光寺の近くにあったようです。松本平から険阻な刈谷原峠を越えて刈谷原宿にいたる善光寺街道が制度として発足したのは1614年以降だと見られています。


◆過疎化が進んだ宿場跡の集落◆


画面中央の尾根裾の急斜面の谷間の奥にある刈谷原峠から宿場跡に下ってきた小径が旧善光寺道跡



▲峠越えの道を降り切って刈谷原宿の家並みが見えてきた

▲街並みは急傾斜の街道沿いにつくられている


▲北の彼方に虚空蔵山の頂上の痩せ尾根がみえる


▲昭和期の造りだが、棟入正面に唐破風が施してある古民家


▲住宅がなくなった階段状の敷地は棚田跡のようだ


▲右端は脇本陣・下問屋を務めた中澤家の屋敷(無住で荒れている)


▲住戸は減ったが、整った形の町割り跡が残っている


▲正面の尾根の先に母村となった集落がある


▲この先で街道は直角に曲がる。桝形跡なのだろう。


▲桝形跡と見られる曲がり角


▲クランク状に曲がると宿場街の北端に近づく


▲この先に宿場の北端の桝形があったらしい


▲会田宿(北)側から見た街並みの北端の家並み
 

▲谷に落りていく左の道が善光寺道
 右の細道は保福寺川の谷に向かう

◆保福寺川に降りる急坂の集落◆


宿場街の南端がこの辺り


旧街道は刈谷原峠にのぼっていく

  制度として北国街道西往還(善光寺道)の発足が遅れたのは、幕府の中枢部で権力闘争・利権争奪の暗闘があって、それが中山道の贄川宿よりも北の経路をめぐる紛糾と絡み合い、中山道から善光寺道との接続経路について混乱していたからだと見られます。

  さて、保福寺川峡谷の旧刈谷原街と旧保福寺町にまたがる一帯には、古代には錦織(または錦服、錦部、ともに「にしごり」と読む)郷という荘園があったそうです。そして、古代の官道、東山道の要衝となっていたと伝えられています。上田方面に向かう道と麻績方面に向かう道との分岐点だったからです。
  松本平の北端、岡田から保福寺川に往くためには、稲倉峠、刈谷原峠、馬飼峠のいずれかを越えていかなければなりませんでした。
  錦織部(にしごりべ)とは、律令制のもとで大和王権に服属した錦繍降りや綾織りの技能を持つ渡来人系の工人集団を意味します。もともとは、古墳時代に戦乱や迫害を逃れて日本に移住した大陸出身者=渡来人が、生産物の貢納と引き換えに部曲としての自治権を与えられた集団です。


街道に面して破風を設けた棟入の造り


かつては旅籠を営んでいたのかもしれない

  古代にそういう人びとが、信濃の山深い筑摩地方に集落を営んでいたたことから、保福寺川隆起の山里の地名が錦織となったのではないでしょうか。同じ麻績川水系の北方には、古代に麻績部が集住したという麻績郷がありました。
  という背景から東山道の幹線や支線が筑摩郡に開削されることになったと見られます。

  高度な文化と技能を備えた山里の人びとや交通路が、上田での信濃国府の建設や国分寺建立にさいして大きな役割を果たしたことは、想像に難くありません。
  渡来人集団の文化には、言うまでもなく仏教が含まれていたので、古代に錦部の北にある会田の虚空蔵山系やさらに北の岩殿山系から麻績にいたる算勘にいくつも山岳信仰や密教修験の霊場寺院がつくられたのは偶然ではありません。

  戦国時代までは、刈谷原の集落は宿場跡よりも北側にあったようです。善光寺道の刈谷原宿は、1614年(慶長19年)頃に松本藩にょって制定され、建設が始まったものと推定されます。
  というのは、その年、藩主小笠原秀政が保福寺道の宿駅として穂福治村を指定していて、刈谷原もそのさいに善光寺道の宿駅集落として建設が命じられたと見られるからです。

  善光寺道は北国間道の脇往還で、幕府直轄の街道ではなかったので、正規の制定と整備の開始は五街道よりも遅れました。幕藩体制そのものが試行錯誤を経て徐々に確立されたという事情もあるでしょう。
  脇往還として善光寺道の本道である北国街道そのものさえ、整備がほぼ完了するのは、1730年代だったのです。

  刈谷原の宿駅街の建設が始まった17世紀前半には、その南側の岡田宿はまだつくられていませんでした。松本城の大外堀の役割を果たしていた女鳥羽川の南畔にある松本宿(現中町)から北上する善光寺道は、仇峠と呼ばれた刈谷原峠の急斜面を越えて保福寺川の谷間に向かいました。
  松本藩は、刈谷原峠の北側の斜面を切り開いて新開地として宿駅の建設に着手し、本来の刈谷原集落から移住者を募ったのでしょう。そのとき郷士となっていた中澤家を本陣(問屋兼務)と脇本陣(問屋兼務)として宿場街を発足させたようです。
  17世紀前半には宿場街の住戸は十数軒しかなかったなかったと伝えられています。それでも、天保期までには70軒、住民数は300を超えるまでに成長したと記録されています。
  急傾斜の旧街道の両脇の街並みは、階段状の町割り(敷地割り)となっていました。敷地の土砂流失を防ぐために、敷地の縁は石組(石垣)で支えられていたのではないでしょうか。昭和期まではそこそこの住民がいましたが、過疎化が進んで現在では、階段状の敷地の半分以上で住戸がなくなってしまいました。


整った町割りだが、草地となっている


間口が広く奥行きも深い敷地割りだ

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