上町南端の桝形と秋葉社の姿を想像する

  この図は、江戸時代の長沼宿上町南端の桝形の想像図です。
  桝形とは、2回以上直角に曲がらないと前に進めないような形に構築した軍事設備です【⇒桝形の説明】
  ここでは、高さが1〜1.5メートルくらい、幅1間ほどの低い石垣土塁を『』の形に向き合わせて並べた桝形を想定しました。石垣の長辺は5〜8メートルほどと推定しました。
  形状推定のモデルとしたのは、佐久市田口の街外れにある桝形です。【⇒佐久市田口街外れの桝形跡】
  田口は龍岡藩の城下街で、そこには龍岡五稜郭跡があります。藩領の規模は1万2千石で、長沼藩の規模とほぼ同じです。そういう理由で、街外れにある桝形は、長沼藩の城下街の外縁に位置する長沼宿の桝形の形状を推定するモデルになると考えました。
  現在、堤防上の大欅記念碑の脇に置かれている川上社は、秋葉社などとともにこの桝形の周りまたは石垣土塁の上に置かれていたのではないかと想像してみました。
  桝形の周囲は草地となっていて、松やクヌギ、柳などの樹木が植えられ、川上社や秋葉社、三峯社などの小さな石祠群があって、小さな神社の境内のような趣があったのではないでしょうか。長沼神社の参道でもあたったので、佐久市田口の桝形のように、桝形の出口には大鳥居が立っていたかもしれません。
  北国街道松代道を旅する人びとは、とくに夏などにはここにある樹林の木陰で休憩を取ったのではないでしょうか。
  ところが、明治維新後には、全国の宿場や城下町の道路上の桝形は、交通の障碍だとして撤去され、道路以外の部分は民有地になり、田畑や住宅の敷地になっていきました。長沼宿の南端では、桝形が壊されて石垣は解体撤去され、土塁の土砂の一部分が現在の秋葉社の塚(盛り土)に使われたのかもしれません。現在、秋葉社の南側の果樹園は、そのむかし桝形あるいは秋葉社、樹林があったところだったかもしれません。