善光寺街道は、青柳の集落を出ると堂の沢の渓谷から北に離れて北に曲がって麻績に向かいます。戦国時代までは、街道の往く手を幅の狭い岩尾根が遮っていたそうです。
  それを青柳家の最後の領主が北に直進できるように深さ2メートルほど切通した経路に造り変えたそうです。その後も江戸時代になって開削工事がおこなわれて、大切通しと呼ばれるようになったようです。


◆何度も開削工事がおこなわれて現在の地形となった◆


近くの説明板によると長さ27メートル、幅3.3メートル、高低差6メートルの切通し道



▲堂の沢の谷の上を緩やかにのぼっていく旧街道の小径


▲黄褐色の岩塊は劣化した花崗岩だと思われる


▲尾根をのぼる径の上り口から切通し道を眺める


▲岐路通し入ってから上を見上げると・・・


▲切通しを抜けてから麻績郷に向かって降っていく旧街道


▲200メートルほど歩くと、小さな切通し(奥は高速道路の高架)


▲北側から小切通しを振り返る

◆大切通しと小切通し◆


切通しの西脇をのぼっていく細道


岩壁に残る石仏群

  室町中期頃までの善光寺道の古道は、青柳集落の背後の城山の裾を里坊稲荷神社の辺りを回り込んで麻績郷に向かっていたのかもしれません。あるいは集落の北側を遮る幅の狭い尾根を乗り越えて麻績川の畔に降りていったのかもしれません。
  旧街道脇の説明板によると、青柳家の最後の領主(伊勢守頼長)が1580年に尾根を深さ1.8メートル、幅2.5メートルほど掘り下げて麻績郷への連絡路を開削したそうです。ところが、それから間もなく頼長は松本城で小笠原氏によって謀殺されてしまいました。
  説明板に戻ると、切通し道は1698年(元禄年間)には長さ25メートル、幅2.5メートル、高さ1.8メートルという規模で、その後1716年(享保年間)、1769年(明和年間)、1809(文化年間)と3回開削情事がおこなわれて、長さ27メートル、幅3.3メートル、高さ6メートルという現在の規模になったそうです。
  この場所からだいたい200メートル北に進むと麻績村に入りますが、ここにもうひとつ小さな切通しがあります。岩壁脇の説明板によると、長さ3.9メートル、幅1.2メートル、高低差0.3メートル(江戸時代後期)だったそうです。現在の地形になったのは明治以降のようです。
  青柳の外れのものが「大切通し」で、麻績村のものが「小切通し」と呼ばれています。小切通しは、大切通しの文化年間の開削にともなってつくられたそうです。

  さて、大切通しの青柳集落側の岩壁には、「百体観音」と呼ばれている石仏群の多くが今でも残されています。小切通し脇の説明板によると、1810年(文化7年)に青柳村や旅人が百体の観音仏を勧進(製作と奉納安置)したということです。百体観音とは一般に、西国ならびに東国の三十三観音と秩父三十四観音を合わせたもので、ここでお詣りするとこれら全部の観音仏を巡拝したことになるそうです。
  開削で切り出した岩塊を利用してつくった石仏だそうです。岩壁は黄褐色の好物なので、劣化した花崗岩だと見られます。地中深くの岩石は、石仏を彫るのに適した堅い花崗岩だったということでしょう。


ざっと見渡して3分の1くらいは残っているか

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