龍澤山碩水寺は、今は集落や人家から離れた尾根の中腹にありますが、往古はこの一帯の領主青柳氏が統治する街集落が近くにあったのではないでしょうか。
  現在、旧善光寺街道沿いにある集落は東条川による水害を怖れていたため、戦国時代までは碩水寺に近い場所にあったのではないかと推定されます。


◆山腹高台の城郭のような構えの禅宗寺院◆


石垣を施された高台の上に鐘楼門が城郭の櫓のように待ち受けている



▲急勾配の石段をのぼって段丘高台上の境内に向かう


▲鐘楼門をくぐると正面に広壮重厚な本堂がある


▲本堂の向かって右側の庫裏客殿も広壮だ


▲本堂の向かって左側が禅堂らしい


▲本堂前から鐘楼門を振り返る


▲鐘楼門の翼棟から庫裏へと導く回廊


▲鐘楼門から高台の下の石段、池、稲荷社を見おろす


▲鐘楼門の下(石段のぼり口)に祀られている稲荷社



▲青柳の南手前にある中村集落を往く旧中山道

◆古くは真言密教の寺院だった◆


鐘楼門越しに本堂を眺める


小さな池の背後に禅堂

  天明年間と文化年間に火災に見舞われたため史料文物の多くが失われ、龍澤山積水寺の来歴は謎です。裏山に覚応阿闍梨法印の塔があったことから、もとは真言宗の寺であったと見られています。覚応法印は室町時代初期(1360~70年頃)に活躍した安芸の寺院の高僧で、各地に真言密教寺院を開創・再興したと伝えられています。
  してみると、碩水寺(前身の寺院)は14世紀後半にはこの地にあったことになります。
  この地の西方、岩殿山系や富蔵山系には飛鳥時代から山岳信仰の修験霊場があって、9世紀半ばには慈覚大師が岩殿寺を真言密教寺院として開山したそうです。真言密教の拠点が古代から近隣に合ったということなので、覚応法印がそこに巡錫したことも考えられます。青柳氏は鎌倉時代から麻績以南の地方で開拓を指導した領主なので、室町初期に覚応が青柳氏の庇護や支援を受けて寺院を開創または再興したのかもしれません。
  岩殿山からほど近い四阿山系の尾根にも真言密教の修行拠点となる寺院堂宇がいくつかあったのかもしれまえん。

  さて、曹洞宗に改められたのは1528年(享禄元年)のことで、この地の領主青柳近江守清長が開基となり、旧南安曇郡有明村の清原寺住職、天如桂樹和尚が開山して1533年(天文元年)に寺が建立されました。この時期に、衰微荒廃した古くからの寺院を再興・再建する禅粗衣たちの運動がおこなわれたと見られます。
  青柳氏はそれだけのものを確保・動員できるだけの権力・権威と富を保有することができた領主だったというわけです。


ざっと見渡して3分の1くらいは残っているか

  岩殿寺は慈覚大師が勅命を受けて開創したと伝えられている密教修験の有力な拠点です。現在地よりも標高が高い岩殿山系にあったはずで、いくつも支院があって、多数の僧と従者たちが集住していたということなので、高野山を小さくしたような宗教都市集落があったはずです。
  青柳氏はそういう都市集落にも影響力をおよぼしていたのかもしれません。すると、現在は棚田地帯となっている山裾斜面には、豊かな農村集落あるいは都市的な集落があったのかもしれません。

  その山裾斜面の下の方にあるのが中村集落で、江戸時代中期以降に旧街道沿いに発達したと見られる村落です。その頃の住居や納屋などの建物は茅葺だったので、東条川河畔や山嘘斜面の田畑と森との境界は広大な茅場(屋根材を入手するための茅原)が広がっていたのではないでしょうか。ともかく、現在とはまったく異なった風景が展開していたはずです。


旧街道は中村の東条川河畔寄りを通っている

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