この一帯では、刈谷原と会田には諏訪社が明治末期の祠堂合祀令によって神明宮に編合されてしまったので残っていませんが、板場の集落には復元されて存在しています。近隣では、五常、中川(小岩井)、穴沢などに諏訪社が残っています。
  諏訪社は、鎌倉後期から室町時代を経て戦国末期ないし江戸初期までに用水堰の建設と水田開拓を進めた集落群に祀られ、農民たちを結束・連帯させるための拠点となったと見られます。


◆保福寺川右岸の丘に祀られた神社◆


保福寺川河畔の水田地帯を見渡す小高い河岸段丘上にある諏訪の鳥居



▲境内から南東を眺めると取出の浄運寺と舌状台地が見える


▲北東方向には会田集落と虚空蔵山の峰が見える


▲二重の切妻造りの拝殿がは東方を向いている


▲入母屋造りの神楽殿は拝殿と向き合っている


▲境内の脇を往く農道は参道も兼ねているようだ

◆水田地帯を見守る神社◆


奥行きが深い拝殿の奥に本殿蓋殿が連結

  信州の筑摩地方や北信地方では、室町後期から江戸初期にかけて新開地として水田開拓と村落建設を進めた地区では、諏訪社は村落農民の結束の核・拠点となったと見られます。
  したがって。新開地をもつ村落にはたいてい諏訪社が祀られることになりました。ところが、明治政府は日清戦争・日露戦争での膨大な戦費支出で財政危機に陥ったことから、祠堂合祀令によって、各町村に対して小規模な神社や祠堂を郷社格あるいは村社格の有力な神社に統合合祀することを強制しました。
  祠堂がなくなった境内社領を、政府は没収して売却して巨額の財政収入を獲得しました。集落ごとにあった小さな祈りや信仰の場と社叢の生態系を犠牲にして、明治政権は財政的に生き延びたのです。
  言い伝えでは、板場集落の諏訪社もまた会田神明宮に合祀されましたが、地区独自の伝統的な諏訪社の祭礼を開催するため、現在地に神社を復元したそうです。ここは、保福寺川の西岸の緩やかな段丘の上で、集落の家並みがある段丘よりも下(川寄り)に位置しています。
  集落の外れで河畔に開拓された水田地帯を見おろすような場所です。今では平坦地の水田圃場のほとんどは、耕地整理されて長方形に整えられています。神社の背後の集落では過疎化が進み、住戸数が減って、村の姿は昔とは違う姿になっているようです。


横から眺めた楼門の形

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