善光寺街道の会田宿は、海野氏の支族、会田氏が鎌倉時代からつくってきた城下街がもとになって江戸時代はじめに建設されました。 ◆鎌倉時代に始まった城下街がもとになった集落◆ |
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![]() 会田川左岸の丘を往く県道302号脇から会田宿と背後の虚空蔵山、立峠を眺望する |
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会田の善光寺道は昭和後期から平成期にかけて自動車用道路として舗装されましたが、江戸時代にはラクダの背中のように起伏に富んでいたそうです。 会田川を越える会田大橋も、渓谷を下った下の河岸段丘崖に架けられていたようです。 ![]() ▲会田宿の背後(北側)の丘から善光寺道沿いの家並みを眺める ![]() ▲会田大橋の袂から宿場街の家並みが始まる ![]() ▲会田宿の旧立町の家並み。この先の辻で東に曲がる。 ![]() ▲トタン葺切妻屋根の古民家はかつては繁盛した店舗だったか ![]() ▲大正期の土蔵風店舗建築の名残をとどめる商家の遺構 ![]() ▲この四つ辻で街道は東(左)に転じて旧新町通りに入る ![]() ▲四つ辻の様子を街道北脇から眺める ![]() ▲1970年代までは一体で一番繁華な商店街となっていた通り ![]() ▲新町通りには店舗町家が櫛比していて、空き地はなかった ![]() ▲昭和中期までの建築だが、昭和末~平成期に修復されたという ![]() ▲本町通りは、岩井堂沢の谷間の東岸の急坂を立峠まで向かう ![]() ▲善光寺(参道)常夜灯の脇から会田宿を振り返って見おろす ![]() ▲南方を眺めると、急斜面の下に会田川の峡谷がある 会田宿の外れの目印は、道路の両脇に立つ善光寺参道の常夜灯だ。説明板によると安政年間の建立だという。ここで宿場街が終わるのだとすると、ここに桝形が設けられていたはずだ。 ![]() |
◆山峡会田をめぐる地理と歴史◆
善光寺道は、刈谷原から北に向かっては、保福寺川沿いに谷間の丘陵上を会田まで4キロメートルほど進んでいました。ほぼ県道302号の経路に当たります。取出までは保福寺川右岸を往き、そこで左岸に渡り、1.2キロメートルくらい北上したところで会田川を越えることになります。
会田から保福寺川を上流にたどる善光寺道から東に分岐する道は、保福寺峠を越えて上田、塩田方面に向かう古道で、東山道の一部または支線だということです。保福寺川との合流地から谷間を西に進めば北安曇、大町方面に連絡します。
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