善光寺街道の会田宿は、海野氏の支族、会田氏が鎌倉時代からつくってきた城下街がもとになって江戸時代はじめに建設されました。
  会田には13世紀に都市的な集落が建設されてから江戸時代初期に街道宿駅が建設されるまでに400年近くの時が経過していたわけで、町割りを見ると、街道に面した間口が広いという点で、普通(近世)の宿場街としてよりも中世風の古い城下町の特徴を色濃く残している集落だといえそうです。会田は天領でした。


◆鎌倉時代に始まった城下街がもとになった集落◆


会田川左岸の丘を往く県道302号脇から会田宿と背後の虚空蔵山、立峠を眺望する


 会田の善光寺道は昭和後期から平成期にかけて自動車用道路として舗装されましたが、江戸時代にはラクダの背中のように起伏に富んでいたそうです。
 会田川を越える会田大橋も、渓谷を下った下の河岸段丘崖に架けられていたようです。

▲会田宿の背後(北側)の丘から善光寺道沿いの家並みを眺める


▲会田大橋の袂から宿場街の家並みが始まる


▲会田宿の旧立町の家並み。この先の辻で東に曲がる。


▲トタン葺切妻屋根の古民家はかつては繁盛した店舗だったか


▲大正期の土蔵風店舗建築の名残をとどめる商家の遺構


▲この四つ辻で街道は東(左)に転じて旧新町通りに入る


▲四つ辻の様子を街道北脇から眺める


▲1970年代までは一体で一番繁華な商店街となっていた通り


▲新町通りには店舗町家が櫛比していて、空き地はなかった


▲昭和中期までの建築だが、昭和末~平成期に修復されたという


▲本町通りは、岩井堂沢の谷間の東岸の急坂を立峠まで向かう


▲善光寺(参道)常夜灯の脇から会田宿を振り返って見おろす


▲南方を眺めると、急斜面の下に会田川の峡谷がある
 
 会田宿の外れの目印は、道路の両脇に立つ善光寺参道の常夜灯だ。説明板によると安政年間の建立だという。ここで宿場街が終わるのだとすると、ここに桝形が設けられていたはずだ。

 

◆山峡会田をめぐる地理と歴史◆


穴沢川の北岸の街道脇に並ぶ石仏群


かつての商店街の賑わいを物語る光景

  善光寺道は、刈谷原から北に向かっては、保福寺川沿いに谷間の丘陵上を会田まで4キロメートルほど進んでいました。ほぼ県道302号の経路に当たります。取出までは保福寺川右岸を往き、そこで左岸に渡り、1.2キロメートルくらい北上したところで会田川を越えることになります。
  会田は、西から東に流れる会田川に南東から穴沢川、南から保福寺川、北から岩井堂沢が合流していて、それぞれの川が形成した峡谷が複合した扇状地(盆地)をなしています。岩井堂沢は、虚空蔵山と立峠から続く急勾配の斜面を流れ下っています。
  往時、会田大橋の北岸から会田宿の家並みが始まっていたようです。橋の北岸では道は直角に2回曲がるクランク状の形で、石垣をともなう桝形があったと見られます。
  そこから善光寺道は立町通りを200メートルくらい北に進んだところで直角に東に曲がり旧中町通り(今の新町)となり、300メートルくらい進んで、今度は北に直角に曲がって本町通りとなり、立峠に向かって岩井堂沢が削り出した谷間の急斜面をのぼっていきます。善光寺道は全体としてクランク状の道筋で会田宿を通っているのです。

  会田宿の街道沿いの家並みは、中世をつうじて海野系会田氏の城下街となっていた集落の外縁部(会田川北畔)の農村集落が原型になったのではないかと見られます。城館ないし城郭と家臣団の集落は、農村的集落の北側――斜面の上方――、殿村遺跡から広田寺の辺りにあったのではないかと推定されます。
  虚空蔵山の尾根峰には会田氏の山城(砦)があったといわれていますが、元来は、古代に拓かれた山岳信仰ないし密教修験の拠点霊場の遺構だったのではないでしょうか。段郭や切岸、堀切などの築城技術の原型には、古代中国から知識や技術を取り入れながら密教修行の場(堂宇や集会場)を築いた僧たちが開発した建築・土木技術だったのではないかと考えられます。


街道側の腰壁と柱に海鼠漆喰が施されている


江戸時代中期から旅籠を営んでいたという町家
明治までは茅葺だったが、昭和期に改築された

  会田から保福寺川を上流にたどる善光寺道から東に分岐する道は、保福寺峠を越えて上田、塩田方面に向かう古道で、東山道の一部または支線だということです。保福寺川との合流地から谷間を西に進めば北安曇、大町方面に連絡します。
  そういうしだいで、会田は山峡にあっても古代から交通の要衝だったのです。
  会田盆地は、会田川水系と保福寺川水系が十字形に交差していて比較的に広い谷間の平坦地をなしています。古代から山岳信仰の修行者や密教修験僧が先導する形で農耕地の開拓と集落の建設が進められてきたようです。平安末期から鎌倉前期にかけて、東信に勢力を築いた海野氏の一族が松本方面に進出する拠点としたのはいわば理の当然とも言えるでしょう。

  さて、善光寺道はいくつかの要衝の宿駅は幕府の直轄地(天領)で、幕府道中奉行の統制が割合に強くおよんでいたようですが、全体として松本藩ならびに松代藩に街道宿駅の建設が委ねられていました。そこで、中山道のどの五街道に比べて宿場街の建設にあたっては、出来合いの集落をそのまま利用する場合が多かったようです。
  宿場街の町割り(敷地区画)は、街道に面した間口側が狭く奥行きが深い形となっていますが、5~8間くらいの間口が多いようです。そして奥の方の家屋の裏手は耕作地となっていたと見られます。江戸後期から幕末期には、とくに中町と立町では宿場街の負担に耐えかねて立ち退いた家が多かったようで、富裕な商家が隣接地を買い取り併合して間口を広くしたと見られます。
  現在、街道沿いに保存されている町家古民家は、大正期から昭和中期までに修改築されたもので、屋根は瓦葺きです。全体として養蚕が盛んだった時代の造りを保っています。間では幕末から昭和中期まで養蚕が盛んだったそうです。
  その頃までは会田集落は筑摩郡で最も栄えた商店街で、繭の出荷が終わった時季や秋の収穫後には近郷近在から多くの人が買い物に訪れて賑わっていたようです。


本陣問屋の屋根は豪雪に備えた造りに見える


宿場の問屋を務めていた家門の屋敷跡にの薬医門


善光寺道は北に方向を転じて立峠にのぼっていく

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