上掲の町割り図は、『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』801ページからの引用です。原点(典拠)についての表記はありませんが、昭和中期になってから旧宿場遺構をもとにして江戸時代後期のものを推定した復元図ではないかと見られます。
現在の会田宿交差点から北に向かう道路はなく、広田寺に向かう道は、仲町通りの中ほどから旧小学校跡の段丘をのぼる細道と長安寺の西側に出てくる道が合流した道となっています。
ところで、江戸時代の会田川はいくつかの階段状の河岸段丘を降りた谷底を流れていたそうなので、立町通りの家並みは、実際にはこの絵図と異なり、川沿いの家はなく、流れとの間には谷の傾斜面があったはずです。
というわけで、昭和中期よりも前の状態を想像で復元して考察する必要がありそうです。 |
すると、江戸時代には仲町通りと立町通りが出会う辻に石垣をともなう桝形が設けられていたようです。ここはクランク状の道筋になっていたでしょう。この辻から東側には上田に向かう道路が描かれていますが、これは農耕地に向かう細い作場道(農道)でした。
同じように、仲町通りから本町通との辻左手(西側)にも桝形があってクランク状の道なりになってたとと見られます。そこから東は作場道が¥だったようですが、神明宮への参道だったので、道幅は広かったかもしれません。
殿村や広田寺に行くためには、補陀(普陀)寺の東脇の急坂の細道あるいは長安寺への参道小径をのぼるしかなかったのです。補陀寺は、旧会田小学校跡の丘の西端――岩井堂沢の河岸――に位置していました。 |