◆和田宿近隣寺社めぐり その8 原~刈宿~久保◆

  これまでの近隣寺社めぐりで主なものはだいたい探訪しましたが、和田宿の街並みから離れた地区の小さな寺や神社そして祠などを訪ねてみましょう。
  和田神社までめぐったので、神社の下にある道を歩いて、原、刈宿、さらに久保地区まで足を延ばしてみましょう。私は、散策の途中で出会った住民の方々に近隣の名所や祠、神社などを尋ねてそれらを探し回りながら、心惹かれる風景を楽しみました。
  ところが、その多くは名称がわかりませんでした。地元の人たちも、「○○の神社」という場所をつけた通称で知っているだけという場合が多いのです。そのため、私が『和田村村誌』やそのほかの史料・記録をもとに推定した仮称のものあります。

▲原から釈迦堂橋上まで続く野道を歩く
  晩秋、刈入れが終わった水田地帯に古峰山の尾根が迫る。ひときわ高い針葉樹林のなかに見える屋根は信定寺の本堂。


▲道の北側にある水沢水神宮。裏山は余里峠で、水神宮はその裾
近くの山腹にある。
  水沢とは、ここの地名なのか、それともこの湧水がつくる流れ
が水沢と呼ばれるのか?

▲水の注ぎ口の上にある小さな祠。
  祠そのものも端正に手入れされ、その
脇の松も端正に剪定されていて、住民が
大切に祀っていることがわかる。

▲四角な池。清冽な水のなかに鯉が泳いでいた。
  池の水は澄んだ湧き水なので、鯉はえさを与えられ
て育ってきたのだろう。

■水沢水神宮■

  まさに小春日和ともいえる晩秋の柔らかな陽射しを浴びながら、私は野歩きを楽しみました。



  すると、道路脇に古くから農耕が発達した和田郷に似つかわしい水神様を祀った祠と池があります。水沢水神宮です。場所は、菩薩寺から300メートルほど北で、水神宮の池には豊かな水が滔々と絶えることなく流れ落ちています。
  この水神様についての史料はないようです。
  水神とは、飲料水や農業用灌漑用水に関する恵みを人びとが求め感謝する自然崇拝ともいえます。
  和田郷には依田川、男女倉川、追川(野々入川)、ホドノ入川、松沢川など、和田郷には豊かな推量の河川が数多く流れています。豊富な水に恵まれた里なのです。
  この水神宮は、自然の恵みの感謝し、その永続を願う人びとの心を写すものなのでしょう。

■文殊堂・道祖神・二十三夜塔■


久保の文殊堂(羽田家のお堂)▲

  山沿いの道を歩き続けると、刈宿と久保との境界が入り組んでいる場所に来ました。近所の老婦人に「ここは刈宿ですか、久保ですか」地名とその境界を尋ねました。説明を受けても、私が理解できないほど境界入り組んだところです。

  しばらく歩いて、急傾斜の小径に沿って沢が流れ下る辻に来ました。その山側の角には、近隣では「羽田一族のお堂」と呼ばれる祠や石塔、お堂がありました。すぐ近くに羽田氏の居宅があるそうです。
  この辺りの古老によると、先祖から伝え聞いた話では、やはりこの地区の羽田一族は、古代中国や朝鮮半島から戦乱や迫害から逃れて渡来した秦族の末裔のようです。
  千数百年前に高度な鉄器文化や漢字、仏教文化、騎馬術など、高度な文化を携えてこのあたりの山里に隠棲し、農耕地や村落の開拓を指導したのではないでしょうか。
  そして社稷あるいは祖霊を祀る場所をつくり、代々一族の霊廟となる小堂を建立したのではないか、そんな思いがします。
  「文殊堂」とは釈迦に仕える智慧の神を祀ったお堂ですから、高度な文化をもたらした秦族の堂として似つかわしいのではないでしょうか。

  近隣3回目の取材のさいに私は運よく、文殊堂の境内の松を剪定していた羽田家(本家)の当主の方と話をする機会を得ました。
  羽田さんによると、代々自分たちは渡来人の家系で、戦国時代まで「はた」という姓は長らく「秦」で表記してきたが、真田信之から扶持を受けるようになったときに「羽田」に変えたと、先祖から伝えられてきたとのことです。
  そして、この文殊堂の管理も羽田家本家の役目として受け継いできたそうです。


古くからの造りを残す民家(刈宿地区)▲

■久保神明神社■

  さて、散歩をしていた老婦人に聞いたところでは、文殊堂の上に神社があるということなので、行ってみました。坂道を登り切った辺りの道の東側の草原に神楽殿と社殿がありました。
  老女の話では、子どもの頃から「久保の神社」と呼ばれていたが、正式な名称は知らないとのこと。羽田さんによると住民は「神明神社」と呼び習わしてきたそうです。
  老女は「70年ほど前、小学生の頃には例祭の日には近隣の子どもたちが大勢集まってそれは賑やかだった。ことに刈宿には神社がないので、そこの子どもたちもやって来たものだ」と語っていました。

  境内奥に並ぶ3つの社殿の名前はわかりません。祠の左端の石碑には「御岳神社」「圥婆ろくば大神」が横並びに刻まれています。
  御岳神社は、中山道の各宿場街や近隣村落に数多く見られます。中山道は多数の御岳信仰の講が御岳詣でをするために旅をした道でしたから、まあ当然です。
  しかし圥婆については、皆目わかりません。「圥」の意味は「きのこ」だということですが、ほかに当て字として使われた場合に「山深いところ」という派生的な意味もあるようです。
  だとすると、「きのこ」を祀った神社、あるいは「山姥」を祀った神社ということになるのでしょうか。


▲刈宿と久保との境界付近

▲文殊堂下の祠・石塔群。近くに羽田氏一族の住居がある。

▲文殊堂。なかに小さな文殊菩薩の厨子が置かれている

端の祠は稲荷社か。屋敷神のように祀られているのかも?

右から道祖神、二十三夜塔、回国六十六部記念碑。

▲文殊堂の下の急坂を昇る

▲新明神社の神楽殿。

▲神社の本殿。祠が3つ並びんでいるが、名称は不明。

▲左端の石碑には「御岳神社」「圥婆ろくば大神」と刻まれている。

▲馬頭観世音碑が集められている

  右の写真は、久保地区の西の外れから南――野々入、美ケ原高原郷――を展望した風景です。高原に向かって棚田や段々畑が続いています。
  戦国時代まで東山道を往く旅人は、峰がかすかに見える茶臼山の北を回り込んで、この辺りに下りてきたといいます。そして、久保の下の刈宿で宿を借り、峠越えの疲れを癒したのだとか。



エントランス



▲参道右手には六地蔵が並ぶ

▲左手に並ぶ石碑や石仏、石塔

■久保狐穴の虚空蔵堂■

  神明神社を後にした私は文殊堂まで坂を下り、沢沿いの坂をふたたび上って、狐穴という場所まで行ってみることにしました。その辺りが、和田郷で一番標高が高い集落です。
  しかし、「限界集落」と呼ばれるこの地区では、高い場所に行くほど、無住になった家屋が目立つようになります。狐穴と呼ばれるだけあって、険しい傾斜の集落です。人びとはそこに営々と生産と暮らしの場を築き上げてきたのです。今、それが次第に消え去ろうとしています。

  さて、そこで私は小さな庵のようなお堂を見つけました。どうやら、これが虚空蔵堂と呼ばれる小堂だと判断しました。『和田村村誌』に掲載された写真では、今と違って茅葺ですが、お堂の脇の杉の木の形から虚空蔵堂だと考えたのです。
  私は、お堂の上脇の道から境内に入りましたが、本来は下の入り口から参詣するようになっているようです。
  お堂に向かって右側には石造りの六地蔵が並んでいます。反対側には、石仏や石碑、石塔などが集められています。お堂近くにあるのは、岩に載せられた大日如来坐像でしょうか。
  虚空蔵堂には虚空蔵菩薩坐像【写真下】があるということですが、今もあるのでしょうか。


右手に宝剣をかざした虚空蔵菩薩坐像▲
出典:『和田村村誌』


▲お堂の近くから南東方面に蓼科山の山頂部が見える


▲刈宿で追川は落差を急角度で曲がりながら滝をもたらす

▲滝のしぶきを浴びる紅葉

▲渓流は刈宿から新田、橋場まで流れ下る

■村内の追川渓谷の紅葉■

  11月はじめに取材に訪れたとき、帰り道は釈迦堂橋から追川沿いに刈宿を経て橋場に下りるコースを取りました。というのも、村のなかなのに追川渓谷では素晴らしい紅葉が見られるはずだからです。
  期待どおりでした。追川の清冽な水の流れは錦繡に包まれていました。川沿いに村道が通っているので、歩きながら紅葉の渓流を楽しむことができるのです。

  ここは、集落のなかなので護岸工事をしてあって、急流も滝にも浸食を防ぐ工事が施されているのですが、それでも渓流の迫力と紅葉を楽しむことができます。
  晩秋もいいですが、初夏には黄緑に映える渓谷を眺めることもできます【写真下】。



  追川渓谷は、いわば菩薩寺の裏手で寺からわずかに100メートルほどの近いところにあります。菩薩寺を訪ねたときには、墓地脇の小道を抜けて北西方向に歩いてみてください。

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