熊野十二所権現のなかには4尊の観音菩薩があります。したがって、熊野権現を祀る修験場に観音様を祀る堂舎がいくつも――最少でも4つ――あったはずです。しかし、今残っているのは、集落の西端の山の中腹にある中山観音堂だけです。 また、熊野権現社から観音堂まで向かう小径の両側にもかつては家並みがあったはずですが、いまは数軒あるだけで、しかも常時居住者がいるのは1軒だけのようです。お堂の境内を流れる沢を利用して開墾した棚田も今は見あたりません。時の流れの無常さを感じます。


◆信仰と修験の場としての観音堂◆



観音堂の背後(東側)には大きな岩塊が迫っている。岩場は祈りと山岳修行の場に似つかわしい。



▲写真中央の山裾に観音堂への登り道(参道)がある


▲畑作地の向こう、谷の下にはJR十二兼駅がある


▲途中で振り返って熊誤射方面を眺める


▲赤い屋根は十二兼駅近隣の集落の住戸のもの


▲端正で小洒落た本棟造りの家屋。別荘か?


▲小径はここで行き止まり。この先は谷で、沢沿いに田畑が開墾されたことがあったようだ。谷を降りていくと、JR十二兼駅と近隣の集落にいたる。


▲この急坂の上に観音堂と境内、修験場らしい場所がある


▲沢沿いの石段参道の上に観音堂と石仏群がある


▲石段脇の古い石塔の名残り


▲鬱蒼とした樹林に囲まれた堂宇と境内 ▲


▲お堂の背後の急斜面は花崗岩質の岩山だ


▲岩塊は密林に覆われている


▲岩の上に立つ巨樹はいかにも修験場らしい雰囲気


▲修験者たちはこの岩の崖をのぼっただろう


▲お堂の前には石仏群が並び列をつくっている

 この観音堂の背後の尾根をのぼっていくと、袖山の山頂があり、その直下の谷の窪みは湿原になっているらしい。往古、修験者たちは湿原を越えて、袖山の山頂から尾根伝いに野尻城山の山頂部の険しい稜線まで回行修行したものと考えられる。

■十二所権現の諸仏と観音様■

  熊野信仰は浄土信仰ならびに観音信仰と結びついています。したがって、中心となる権現(証誠殿)は阿弥陀如来ですが、さらに千手観音(結の宮)、薬師如来(速玉で)を加えた三所のほかに、大聖不動、普賢菩薩、釈迦牟尼、不動明王、聖観音、如意輪観音、地蔵菩薩、竜樹菩薩、十一面観音、地蔵菩薩が伽藍に祀られています。全部で十二所の権現です。
  そのなかには、浄土を司る阿弥陀如来に脇侍する4体の観音様がともなっているわけで、修験の場としての熊野権現にはいくつもの観音堂が配されることになります。往古には、袖山山麓の十二兼には多数の観音堂が置かれていたと見られます。
  しかし、現在残っているのは、集落南端の山腹にある中山観音だけです。古い観音堂にあった棟札には、1738年に馬頭観音を祀ったお堂が壊れたため、摂津の国、真言宗紫雲山中山寺から十一面観音を勧請して馬頭観音と合祀して堂宇を再建立した旨が記されていたとか。これが中山観音堂の縁起となったと見られます。


端正な家屋だが常時の住人はいないようだ

  中山寺は真言宗の寺院なので、その頃には十二兼は真言系の密教修験場となっていたのかもしれません。というのも、お堂のなかには弘法大師増が祀られているからです。
  この観音堂の前に並ぶ石仏群のなかには西国三十三観音巡礼の石塔群があるので、この村から西国巡礼の講を派遣するだけの経済的余裕があって、なおかつ弘法大師(真言密教)の影響下にあったと考えられるのです。
  熊野権現は、天台宗や真言宗によって体系化される以前の旧い密教修験あるいは山岳信仰の遺制を良く残しています。この地に熊野権現社が勧請建立されているということは、往古からこの一帯が山岳信仰と密教修験の拠点だったからでないかと見られます。


参道の上り口。東に向かってのぼる。


これは前の沢と呼ばれる水路は御神水

  密教修験は浄土信仰と結びついたのですが、浄土信仰は衆生済度や民衆の救済という目標を提起しました。この目標をめぐっては、宇宙の摂理そのものを司る大日如来との結縁という究極的な原理を背景に置きながら、阿弥陀如来による浄土への来迎を求めることになります。
  とはいえ、如来は究極の摂理を司る仏尊であるがゆえに、それに脇侍する観音菩薩がより衆生に近い存在として救済の手を差し伸べるものと見て、人びとには身近な仏尊として観音の冊に帰依させ信仰させることになるようです。
  日本の密教では、時と場に応じてこの観音菩薩は33の形態(姿)をまとって人びとの前に現れ、戒めや導き、庇護をおこなうものと考えられています。つまり三十三尊の観音菩薩がいることになります。そのなかで特に有名なものとしては、十一面観音、人と同じ姿をした聖観音、千臂千眼を備えた千手観音、馬頭観音などがあります。
  険しい山岳の千日回行の修行がある密教修験は庶民には遠いものなので、江戸時代には諸仏に参詣する霊場めぐりが盛んになりますが、そこには三十三観音の巡拝が含まれることになりました。してみると。十二兼にも三十三観音を祀る堂舎があったのではないかと考えられます。


昭和末期に改築されたと見られる観音堂


観音堂の前に並ぶ石仏群列のなかには、
西国三十三所観音の霊場めぐりの石塔群もある

  今、この村には中山観音堂だけしか残されていません。そして、現代風の建物に改築されています。とはいえ、お堂の周囲の境内寺域としての場と雰囲気は保たれています。
  お堂抜背後の斜面には、密教修験の場となっていたであろう岩塊が残っています。険しい岩塊が連なる急斜面は、鬱蒼とした樹林のなかに埋もれているのです。
  そんな斜面から流れ出た小さな沢は前の沢と呼ばれています。この呼び名は、往古の人びとにとって何か重要なもの、尊崇措く能わざる何かの前を流れる沢という意味です。まさに観音堂がそいう崇敬の対象だったのです。
  伝承では、この沢の水を利用して、歩いてきた参道の下の緩やかな斜面に水田(棚田)や畑作地を開墾したということです。


背後の岩塊の上からお堂を眺めると


岩塊の下を流れる「前の沢」は用水として整備されて
いて、今でも農業用水として利用されている。

  ところで、集落と隣り合う熊野権現社から中山観音まで向かう小径は、往古は田畑を開拓するための農道でもあったと見られます。そして、江戸時代あるいは明治前期までは、この道沿いにも家並みが並ぶ集落があったのではないでしょうか。
  ところが今、小径沿いには数軒の家屋が残っているだけで、しかも1軒を覗くと普段は無住となっているような気配です。多数あったはずの観音堂の荒廃や消滅とともに、人びとの生活の場も失われていったのでしょう。
  おそらく明治維新によって修験者=山伏の職分は禁止されたため、堂舎を守る者はいなくなり、しかも廃仏毀釈政策で堂舎の多くは破却されたのでしょう。そうなると、熊野信仰にもとづく修験や祈りの場は急速に荒廃衰微することになったでしょう。

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