有岡田宿本陣跡から北西に160メートルくらい離れた農耕地帯のなかに大願寺跡があります。明治維新のさいに松本藩の廃仏毀釈によって廃寺となり、寺の記録は廃棄または散逸して何も残っていないそうです。仏像などはいくつか残っているとか。
  戦国時代に岡田町西方の山中に大願寺の前身となった西光寺が創建され、江戸時代に女鳥羽川西岸における農村開拓が本格的に始まった頃、現跡地に移って大願地と寺号を改めたそうです。


◆宿場街ができる前に移設建立された寺院◆


町内から寄付を募って、大願寺跡地に1968年に建てられた史跡記念小堂

旧善光寺街道沿い岡田宿史跡緑園にある絵地図



▲大願寺跡の堂宇は明治前期に岡田学校となったという


▲農耕地帯のなかの寺の跡地には今、墓地がある


▲野菜畑や草地に囲まれた大願寺跡


▲小堂のなかに保管されている須弥壇と仏具・仏像群


▲旧岡田宿の北端は旧上町にあたる
 その裏手(西側)の農耕地のなかに八幡宮跡や大願寺跡がある

◆向山中腹から現跡地に移る◆

  大願寺跡の小堂の前に立つ説明板にはこう記されています。
  「天正元年(1573年)浄土宗信蓮社願誉上人が向山中段に「西光寺」を開いた。
  元和元年(1545年)統治に移転し「大願寺」と改称した。南隣に尼寺「西浄院(旧名西禅院)」があった。明和元年(1764年)本堂・庫裏を建て替え、松本平随一の浄土宗の寺といわれた。・・・」
  向山というのは、岡田神社の北にある南北に稜線を伸ばしている山です。西光寺がこの山腹のどこにあったのかはわかりません。大願寺が移ってきた場所は、その後、岡田宿上町裏の水田地帯となったようです。そこは、すでに岡田村の中心集落ができていて、移転は庄屋(後に本陣問屋となる)をはじめとする村役人の要請に応じてのこととでしょう。

  現跡地にある小堂は、昭和中期1968年に岡田町内から寄付金を集めて建てたものだそうです。
  上記の説明板によると、江戸後期に大願寺は寺子屋を開いていたこともあって、廃寺後、1872年(明治6年)に明治政府の学制発布に応じて寺堂は学校施設となり、やがて尋常岡田学校となったようです。
  旧岡田宿の西側に広がる水田地帯は、昭和期から平成期にかけて大がかりな圃場整備(耕地整理)や道路建設がおこなわれて、起伏が均され、一帯全体が整った長方形の圃場に造り変えられてしまいました。往古は、不規則な形の田畑が連なっていたそうです。

◆造り変えられた地形と風景◆

   1694年(元禄期)の岡田町絵図によると、岡田宿の西側裏手に広がる水田地帯を往く農道はどれも、現在のように格子状に整ったまっすぐな道ではなく、ぐにゃぐにゃ曲がりくねっていました。自然地形に合わせて開墾が進められ、農道も自然発生的につくられたからです。
  大願寺もそういう道の脇にあり、東隣には八幡宮の境内と社叢があって、寺と道を挟んで南隣には薬師堂(西浄院)があったことがわかります。禅寺が衰微して尼僧庵と薬師堂が残っていたようです。
  寺の跡地には墓地が広がっていますが、江戸時代には一般庶民(農民や町人)は墓石を建てるような墓を設ける風習はなかったので、現在の風景は幕末までの地形や風景とはまったく異なっているはずです。ただ単に寺がなくなったというだけでなく、生活や祈りの場そのものの姿がすっかり変わってしまったのです。

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