岡田神社は、伝説によると7世紀半ば(飛鳥時代)の創建だそうです。祭神は、五穀豊穣をもたらすウケモチノカミ(保食神)だとか。
  岡田町の女鳥羽川の最上段の河岸段丘面、正確には削り残された尾根裾に祀られています。参道の経路は道路建設で造り変えられましたが、善光寺街道から始まる旧参道の跡が部分的に残っています。


◆五穀豊穣への強い願いを体現する社か◆


7世紀半ばに創建されたと伝えられる岡田神社の拝殿と社務所

岡田神社の旧参道跡:1985年頃の国道143・県道285号建設工事で参道の大半はなくなり、一部が改造して保存された▲



▲だいぶ古び木製の大鳥居と1対の石塔、門柱碑などが残っている


▲国道143号の西脇から始まる現在の参道と石製大鳥居
 往古の参道はやや南(左)側に湾曲していたと見られる


▲小径の先の高台の針葉樹林が岡田神社の境内と社叢


▲振り返ると、東の彼方に雲に包まれた美ケ原高原が見える


▲女鳥羽川上流から引いた用水路を渡る下馬橋


▲高台にのぼる石段参道で、段上が境内。


▲拝殿と向き合っているのは舞殿


▲拝殿は東向きで、背後に本殿がある


▲拝殿の背後に千木を備えた本殿が置かれている


▲拝殿の南脇に合祀されている多数の祠堂が並んでいる

◆道路工事で造り変えられた参道◆


県道285号は浅間温泉の町に向かっている

  旧善光寺街道沿いに岡田神社の旧参道跡のごく一部分が残されています。旧参道の大方の撤去は、1985年頃の国道143・県道285号の建設工事で、この辺りの地形が大幅に改造されたことが原因です。
  旧街道から分岐して西方の丘上にある岡田神社まで導く旧参道の入り口にあった大ケヤキと並木の一部分、そして木製の古い大鳥居などが史跡として保存されたのだそうです。旧参道遺構は、車線の分離帯として残っています。
  旧参道の経路は、西北西向きで緩やかに曲がっていたようです。県道143号との交差点から30メートルほど北寄りの県道285号脇に、神社に向かう参道の新たな入り口がつくり直されていて、石製の大鳥居と石灯籠が置かれています。
  この道路工事によって、本来は800メートルくらい道のりがあった神社参道は、半分以下のおよそ350メートルになってしまいました。
  それでも、旧参道跡に横に2本並んだ大ケヤキの根元で草地と古い大鳥居を眺めていると、往古の参道を行き交う人びとの姿が想像できます。

◆岡田町の地理と歴史◆

  女鳥羽川は、江戸時代以降、流水量が少ないため流水量が少ない川ですが、太古には膨大な水量が流れて大規模な浸食・運搬・堆積作用をおよぼしていた時期があったようです。近世以降にも、ごくたまに氾濫を起こしたようです。
  そういう歴史は、女鳥羽川の右岸(西岸)に広がる地形、すなわち西側の尾根裾まで河岸段丘が連なっている状況から読み取ることができます。岡田は、女鳥羽川の峡谷が松本平に押し出す出口で、女鳥羽川が運搬した膨大な土砂を堆積させた谷間の扇状地でもあるのです。
  したがって、灌漑用水の確保に労苦がともなうとはいえ、土壌は肥沃です。そこで、岡田町の丘陵地帯には縄文時代から古墳時代、奈良時代、平安時代以降・・・と切れ間なく、住民が居住する集落の遺跡群が見つかっているのです。太古から自然神を祀る祈りの場、信仰の場がつくられてきました。


参道石段の先に広い舞殿がある


祭礼で巫女舞や神楽が奉納される舞殿

◆高台につくられた神社◆

  さて、岡田神社は、岡田地区の西に南北に張り出した尾根裾に続く段丘上に位置しています。祭神はウケモチノカミ(保食神)です。古代の国づくり神話に登場しない女神で、五穀豊穣や食糧生産を司るということから、伊勢神宮外宮の祭神、豊受姫神と同一視する説もあるのだと。
  創建期とされる飛鳥時代(7世紀半ば頃)には、いまだ女鳥羽川が暴れることも度々で、尾根裾の丘に暮らす人びとはさほどの治水技術がなかったので、米などの穀物を栽培するために、女鳥羽川河畔の湿地帯に季節ごとに開墾に出向いていたと推定できます。川の氾濫に備えて、日常の住居群は岡田神社の周囲に構えていたのではないでしょうか。
  一段下の河岸段丘に人びとが降りていって集落をつくり始めたのは、鎌倉晩期から室町時代にかけての頃だと見られます。その頃からは、女鳥羽川の水害の怖れはかなり小さくなったものの、今度は水不足や旱魃のリスクが大きくなっていったようです。


朱鳥居の背後の稲荷社と隣の天神社。

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