◆城郭のような構えの禅刹◆

楼門前から百体観音と総門を振り返る

本堂前から楼門(山門)を眺める
曹洞宗の広田寺は、虚空蔵山の尾根裾にあるものの独立した丘のような地形の頂部に位置しています。言い伝えでは、海野系会田氏の菩提寺であった知見寺が16世紀のはじめに兵火で焼失した後、その衣鉢を継ぐ形で16世紀末近くに、会田氏が小河原家に滅ぼされたあとで、禅刹として広田寺が建立されたそうです。
戦国時代の末期のこととて、豊臣家と徳川家が覇権をめぐって勢力争いをしていた時期です。ことに関東と畿内との中間に位置する信濃筑摩地方では、松本藩の草創期にあって小笠原家の所領拡大の動きと徳川家による直轄領の形成の動きが絡み合って、さまざまな駆け引きが繰り広げられていた時期と見られます。
そういう地政学的な環境にある会田では、広田寺のような格式のある寺院の創建にさいしては、寺院は有力な地主となるので、境内寺域・寺領の寄進や承認・安堵などをめぐって小笠原家と徳川家の駆け引きがあったと見られます。ことに境内と寺領地をどこに定めるかは、重要な――争いの原因となりうる――問題だったはずです。
こういう場合に、滅ぼされたり追放されたり、転封されたりした旧領主の城館跡や直轄地を寺域・寺領とするのが最も無難な策ということになります。旧領主の菩提を弔うという名目も成り立ちます。旧領主の家臣たちが郷士として帰農していれば、彼らを帰順させる契機にもなるでしょう。
というしだいで、戦国末期から江戸時代初期にかけて旧領主の城館跡に寺院を再建ないし創建する事態があまた発生することになりました。
おりしも、室町末期から江戸時代初期にかけて、はじめは臨済宗、次いで曹洞宗、さらに浄土宗や浄土真宗に僧たちによって、衰微荒廃した古い寺院を自分たちの宗派の拠点として再興再建する運動が起きていました。

軒下から本道正面を見上げる
広田寺から殿村遺跡辺りまでは、棚田の跡とはやや違った段郭地形が見られます。これは、鎌倉時代から室町時代までの会田氏の城下街の遺構ではないかと推定できそうです。
丘の頂部に当たる広田寺境内が会田氏の城館で、その裾に家臣団の屋敷街が取り巻いていたのではないでしょうか。
とはいえ、この段郭地形は平安時代には密教修験の拠点となる寺院霊場がつくられていた跡(遺構)とも見られます。
遣唐使とともに古代中国に渡った真言や天台の学僧たちは、山岳地形を利用した段郭構築の技術を学んで帰って、密教修験霊場を建設するさいに応用したものと見られます。それがやがて産地での城郭建築にも使われるようになったのではないでしょうか。
ところで、会田宿仲町の背後(北側)には3段に重なる段丘崖が迫っています。ともに高低差は3メートルくらいあります。これらの段丘崖は、太古には現在よりも北寄りの流路となっていた会田川が侵食して形成したものと見られます。殿村遺跡の段丘面は旧中学校校庭跡で、その下の段丘面は屋内ゲートボール場、さらに下は旧小学校跡となっています。
仲町通り沿いには、今でも段丘崖の上の旧小学校にのぼる古い校門跡が残されています。
会田川はしだいに南寄りの流路に変わっていって、やがて室町時代までには現在の流路に変わっていったものと見られます。そのため、川の破壊力を怖れて、人びとは室町末期までは旧小学校跡よりも上の段丘面に集落を営んでいたようです。

殿村遺跡は発掘調査後に埋め戻されてた
|