江戸前期の千曲川水系と北国街道

  下の図は、江戸時代初期・前期――1616〜1670年頃――の善光寺平において千曲川水系と北国街道の道筋を推定した絵地図です。
  信州では北国街道のルートは3通りありました。
  ひとつ目は中山道追分宿から千曲川に沿って北上し、善光寺を経て北越に向かう道。ふたつ目は、中仙道本山宿から桔梗ケ原を通り、松本から筑摩郡の山中を抜けて麻績宿にいたり、稲荷山を経て篠ノ井追分に連絡する道。三つ目は、屋代宿から千曲川を渡らずに東岸を往く道で、福島宿の先で千曲川を渡って長沼宿にいたり、さらに神代宿を経て牟礼で善光寺道と合流する経路です。

  まず裾花川の流れを、善光寺下から長池・柳原・村山方面に向かう流路から、掘削して、ほぼ真南に向かう流れを変えさせて流水を丹波島に落として犀川に合流させました。また、おそらく犀川が大洪水の影響で大豆島の南側に本流が移りかけたことを受けて、本流路をさらに南に迂回させました。
  とはいえ、江戸時代には、犀川には土砂の堆積による自然堤防しかなったので、犀川の流れはかなり奔放に蛇行していて、とくに雪解け季や豪雨のさいには、分流がいまだ河合新田や松岡の辺りまで達していたと思われます。
  大正時代以降になると、現在の堤防よりもはるかに小さい築堤がおこなわれて、しだいに現在の状態に近づいていったものと見られます。

  また、水田開発のために浅川の流れを柳原方面から豊野方面に変えながら、水田への灌漑用水路を形成していったようです。
  そして、小田切の下、小松原から丹波島まで犀川から千曲川に向かってほぼ南向きに流れ下っていた何百もの小河川群を、小市から放射状に――南向きから東向きまで――流れる農業用水を開削してそこに水を落とし込んで、塩崎、横田から小森、東福寺・西寺尾を経て、神明、小島田にいたる方向に向かわせて、千曲川に合流させました。こうして、農業用水路に湿地帯の水を落として千曲川に流すことによって、この一帯は乾田化して、広大で肥沃な水田耕作地が生み出されました。